奉公衆
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奉公衆(ほうこうしゅう)は、室町幕府に整備された幕府官職の1つである。将軍直属の軍事力で、5ヶ番に編成された事から番衆、番方などと呼ばれた。番衆(小番衆)とも。
鎌倉時代の御所内番衆の制度を継承するもので、一般御家人や地頭とは区別された将軍に近侍(御供衆)する御家人。
室町時代の初期には南朝や諸勢力の活動をはじめ、幕府内部でも有力守護の政争が絶えず、1379年(康暦元/天授5)には康暦の政変で管領の細川頼之が失脚している。3代将軍足利義満は守護勢力に対抗するために御馬廻と呼ばれた親衛隊整備をはじめる。将軍直属の軍事力として1391年(明徳2/元中2)に山名氏が蜂起した明徳の乱や大内氏が蜂起した応永の乱などで活躍する。4代将軍足利義持の頃にはまだ畠山氏の軍事力などに依存しており、6代将軍の足利義教は義満の政策を踏襲してさらに強権を目指し、文官である奉行人とともに奉公衆を制度として確立される。足利将軍家の家督争いなどから起こった応仁・文明の乱以後に将軍権力が弱まると奉行人との間で衝突などが起こり始める。9代将軍の足利義尚は1487年(長禄元)に近江国の六角氏討伐を行い、このときには将軍の親衛隊として活動している。1491年(延徳3)にも10代将軍の足利義材(義稙)が奉公衆を率いて六角氏討伐を行い、1493年(明応2)には河内国の畠山義豊を討伐するために出陣するが、出陣中に幕府において管領の細川政元が明応の政変で将軍廃立を行うと奉公衆の制度も事実上解体される。
8代将軍足利義政時代の奉公衆の編成を記す『御番帳』が現存しており、五番編成で各番の兵力は50人から100人、総勢で300から400人ほどの人数で、各番が抱える若党や中間なども含めると平均して5000から10,000人規模の軍事力であったと考えられている。成員は有力御家人や足利氏の一門、有力守護大名や地方の国人などから選ばれる。所属する番は世襲で強い連帯意識を持っていたとされ、応仁の乱などでは共同して行動している。平時には御所内に設置された番内などに出仕し、有事には将軍の軍事力として機能した。また、地方の御料所(将軍直轄領)の管理を任され、また所領地の守護不入や段銭(田畑に賦課される税)の徴収などの特権を与えられていた。
なお、鎌倉公方や古河公方の下にも奉公衆が編成されていたといわれている。
[編集] 関連
- 管領
- 奉行人