学者
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学者(がくしゃ)とは、何らかの学問の研究や教授を専門とする人、およびその職業である。研究者(けんきゅうしゃ)、研究家(けんきゅうか)とも言う。学問の専門家。
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[編集] 概要
学者とは、大学の教官、天文台、研究機関や研究所の研究員、博物館の学芸員といった職業研究者から、広義に、アマチュア学者と呼ばれる他に職業を持つ研究者、大学の研究生ないし博士課程の学生までが含まれる(ここでは、職業研究者について述べる)。理系の場合には、世界的に見て博士が必要条件であることが多い(アングロサクソン文化では、修士卒で研究職にあっても、研究補助員としか見なしてくれない)。
学者は、研究活動の成果を定期的に学会で発表を行う。学者の格というのは、例外もあるが、世界的に見て論文(特に英語で書かれた査読付きフルペーパー)の質と数で決まると言っても過言ではない。学者としての一つの称号である博士を取得するには、大学によるが、通常3本以上の査読付き論文を必要とし、その後のポスト探しにおいても論文数が重要な要素となる。この評価方式であるため、ある意味、研究能力(論文数)に応じて平等とも言えるが、その生き残りは非常に困難である。本制度は、論文の書きにくいテーマを選んだ人に不利で、さらには他の面(人格、社会貢献や教育貢献)が評価の対象に上がり難く、この弊害が長年指摘され続けていた。
なお、学者の縦の繋がりは強いが、横の繋がりは少なく、分野が違うと顔見知りもおらず、またその分野独特のしきたりも違う。また各々の学者は、自分の専門外の分野に関しては全くの素人と言っても過言でない。このことより蛸壺的な村社会であるとの指摘がある。
[編集] 論文
論文を書くというは、まず文献データベースにより調査を行うことから始まる。その後、テーマと仮説等を立て、実験・理論検討等を経て研究成果を書き上げる。次に、その原稿を学会に投稿し、原稿は二人以上の査読者の査読がかけられる。この査読は、新規性や文章構成等かなり細かいチェックが入る。通常は一回はリジェクトされることが多い。査読にパスすると晴れて論文となり、学会誌に掲載される。この一連の流れには、およそ一年を要する。このため、平均的な学者は年に一本の論文生産となる。査読期間中に別論文を書く等で年二本以上の論文を書き上げることは不可能では無いが、かなりの労力を必要とする。
この労力より、博士課程とは通常3年であるが、3年で3本の論文を書いて更に公聴会等をこなすのは困難であり、修士時代に少なくとも一本の論文を書いていなければストレートに博士号を取ることは難しい。このことより、最近日本の一部の大学では、博士号取得に必要な論文数を減らしている(例えば東京大学や大阪大学)。
また助教授や教授の募集においても、建前として募集者の中で最も論文数の多い学者が選ばれるため、場合にもよるがおよそ20本以上の論文を書き上げる必要があり、その困難さが伺い知れる。ただし、高位のポストの学者は部下や同僚が連名者として名前を入れるため、自動的に論文数が増えることになり、この点で有利となる。
なお、これらの論文を書くという能力は答えの無い分野を開拓することであり、暗記といった受験の能力と別で、学校の成績の良かった者が必ずしも論文を書けるわけではない。また学者は論文執筆能力は高いが、職能訓練を受けた人は少ないためそれ以外の能力は必ずしも高いわけではない。
[編集] 賞
各学会は、学会への貢献者や優れた論文に対して賞を与える。また、世間で有名なノーベル賞やフィールズ賞といった賞、行政や財団が与える賞がある。これらの賞は、論文とは別の、一つの学者の格になっている。
[編集] 待遇
社会待遇として学者について言えることは、幾つかの例外を除き、他の職業に比べ下積み期間は長く、また生涯賃金は低くなる傾向にある。特に20代の後半は、元同級生が就職しはぶりが良くなっている状況にも関わらず、自分が下積みを続けていることで経済的、精神的プレッシャーが大きい。 またこれらの職は、任期付きでのポストもあったり、上司(助教授、教授)と歳が近い場合なかなか昇格しない等より、普通のサラリーマンに比べ「家を買う」、「結婚」といった面で社会的信頼が得られないことが多い。 更には学者として成功したとしても、自己満足と名誉のみ得られるものであり、金銭的なものを得ることはまず無い。
[編集] 一般社会への成果移転問題
学者の成果とは論文であったため、社会への貢献が直接的でないとの指摘を受けていた。このため、各大学では新たな財源という意味でも技術移転の組織を作るようになってきた(なお、以前から大学教授に直接依託するケースはあった)。また、県の研究所や一部の国立研究所では技術移転の組織のあることが多い。
しかし、これらの技術移転組織は、うまく機能していないことが多い。これらは、元々研究という100に1、2がもしかして10年以上経ったときに役に立つかもという性質の仕事を行っていることと、下記の技術者との認識のずれから起こるものである。
企業から依託のあった場合、選ばれる担当者は、企業から依託された分野の専門と完全に一致する場合も少なく、また依託された内容は多岐の分野に渡る場合が多いため、まず元となる文献調査から始まる。しかし、前述したように、自分の専門以外では素人であることが多い。ここで、文献に書かれている他分野の用語、記号使い、概念の一部というはその担当者の分野と違う場合が多いことにより、まず担当者が苦しむことになる。続いて、その原論文を元に、経験則による補正、最適化、評価がスタートする。ここでは、論文のために、定量化可能な評価しか行われないことが多い(定量化不能なことは論文の査読にはまず通らない)。しかし、実際に必要な評価というのは、安全、コスト、リサイクル、ライフサイクルといった定量化し難い項目である現実の問題であることが多い。このため、次にそのアウトプット論文に対して、現実の製品に反映させるためには、依託側の現場の技術者が解釈する必要がある。ここでも、現場の技術者の使う用語、記号また概念は学者と違う場合が多く、技術者が苦しむことになる。更には、具体的な製法やPL法、特許、安全、コストの評価というかなり労力のかかる仕事をこなす必要がある。この最終段階の仕事の内容を学者は知らないことが多く、また知っていても経験の無いことが多い。
企業から依託されたテーマについての成果は、企業側は上記の最終段階の仕事を要求し、大学(または研究所)側はアウトプット論文の解説、試験、指南および試作程度を想定し、その2者には意識の違いがあり、双方不幸な結果に終わることが多い。これは、企業側が大学にできることが何かを認識しておらず、大学も実社会経験のある人が少ないことが原因であり、こういった意味で、研究とは何かを広くアピールし、かつ技術者上がりの学者を雇うべきだという声もある。
一方で、理化学研究所では戦前からそのアウトプットを元に自らが事業を行い成功してきており、更にはベンチャー企業は大学から生まれたものが多く、幾つかはその研究成果を元に成功を収めている。但しこれらは、基本的にシーズ志向のものであり、日本におけるニーズ志向の技術成果移転は模索段階とも言える。
一方で、アメリカ合衆国の大学は政府や企業からの依託研究が多く、社会の研究機関として確立されている。また、アメリカの大学教授は、ベンチャー企業の社長を兼任する例が多い。
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