小杉放庵
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小杉放庵(こすぎ ほうあん、1881年12月30日 - 1964年4月16日)明治・大正・昭和時代の洋画家。本名は国太郎、別号に未醒。
[編集] 略伝
栃木県日光に二荒山神社・神主の子として生まれる。1896年から日光在住の洋画家・五百城文哉の内弟子となり、上京して白馬会洋画研究所に入るが病のため帰郷する。1900年に再度上京して、小山正太郎の不同舎に入門する。1902年に太平洋画会に入会し1904年に未醒の号で出品する。翌年から始まった日露戦争に従軍、このころから近時画報社に籍をおいて挿絵を描き、漫画の筆もとっている。
1908年に美術誌『方寸』の同人に加わり、この年から文展に出品し、第4回展で3等賞、第5回展で『水郷』、第6回展で『豆の秋』と題した作品が続けて2等賞となる。1913年にフランスへ行き、翌年に帰国し、再興された日本美術院に参加し、同人として洋画部を主宰する。1920年に日本美術院を脱退し、1922年に森田恒友・山本鼎とともに春陽会を創立、その翌年に号を放庵と改める。1925年、東京大学・安田講堂の壁画を手がける。
1929年に中国へ旅行。1935年に帝国美術院会員(1958年、日本芸術院会員を辞退)。第二次世界大戦後は新潟県赤倉に住居を移し、新文人画ともいうべき独自の水墨画を残し、その地で没した。
[編集] 絵画、その他
文典に入選した初期の画は、東洋的ロマン主義の傾向を示す。未醒の号で書いた漫画は当時流行のアール・ヌーヴォー様式を採り入れ、岡本一平の漫画に影響を与えている。安田講堂壁画は、フランス画、特にピュヴィ・ド・シャバンヌなどの影響を残しているものの、天平風俗の人物を登場させ、日本的な志向もあらわしている。フランス帰国後から東洋趣味に傾き、油絵をやめ墨画が多くなる。こうした洋画からの転向は「東洋にとって古いものは、西洋や世界にとっては新しい」という認識に支えられていた。代表作は『山幸彦』(1917年)、『老子出関』(1919年)、『炎帝神農採薬図』(1924年)、『放庵画集』(1960年)など。
テニス・野球・空手など趣味が多彩であり、歌人としても知られ『故郷』などの歌集があり、『帰去来』などの随筆、唐詩人についての著作がある。