小野忠明
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
小野 忠明(おの ただあき、永禄12年(1569年)- 寛永5年11月7日(1628年12月2日))は、戦国時代から江戸時代前期にかけての剣術家。将軍家指南役。神子上 典膳(みこがみ てんぜん)から母の姓小野を名乗った。子に小野忠常、小野忠於。
[編集] 経歴
曽祖父の神子上大藏は里見十人衆頭六百石。祖父の神子上庄藏は百石で天文3年の犬掛合戦で木曽新吾と相打ちで死亡(『房総里見軍記』、『里見九代記』)。父は神子上 重(神子上土佐)。母は小野氏。
上総国(千葉県南房総市)に生まれる。幼名は次郎右衛門。はじめ里見義康に仕え天正17年11月里見家の家来として万喜城攻撃に参加。正木時堯(正木大膳)と一騎打したが決しなかったと『里見代々記』にある。やがて里見氏から出奔して伊東一刀斎に弟子入りする。そしてここで兄弟子に当たる善鬼(姓不詳。小野姓とするのは俗説)を打ち破り、一刀斎から一刀流の継承者に選ばれたとされる。
文禄2年(1593年)伊東一刀斎の推薦で、徳川家康に仕官して200石の禄高を与えられ、徳川秀忠付。柳生新陰流と並ぶ将軍家剣術指南役となった。このとき、名を神子上典膳吉明から小野忠明と改名した(『寛政重修諸家譜』)。
小野派一刀流の開祖とされることが多いが、忠明自身は小野派一刀流を称しておらず、また、後に小野派一刀流と呼ばれた系統の開祖は伊東一刀斎である。
1600年の関ヶ原の戦いでは秀忠に従って上田城攻防戦で活躍し、上田七本槍と称されたが、この時軍令違反で処罰され、身は真田信之預かりとなり、上野国吾妻で蟄居を命じられている。その後、結城秀康の周旋で罪を許され、下総国埴生郡の本領に加え、上総国内に加増を受け、都合600石。
1614年からの大坂の役にも従軍して武功を挙げたが、忠明は生来高慢不遜であったといわれ、同僚との諍いが常に絶えず、一説では、手合わせを求められた大藩の家臣の両腕を木刀で回復不能にまで打ち砕いたと言われ、遂に秀忠の怒りを買って大坂の陣の後、閉門処分に処せられた。
寛永5年(1628年)11月7日、60歳で死去した。下総の国埴生郡寺臺村、永興寺に葬られた。 ちなみに、神子上典膳は、御子神典膳とも表記されることがある