山口重政
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山口 重政(やまぐち しげまさ、1564年4月6日(永禄7年2月25日) - 1635年10月29日(寛永12年9月19日))は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。常陸牛久藩の初代藩主。家紋は大内菱。
姓は多々良氏。家系は室町から戦国時代初期にかけて西国の有力大名として名を馳せた大内氏より分流した家柄で、尾張に住し織田家の家臣となった。尾張国寺辺城主・山口重勝の養子となった。実父は山口盛政。母は岡部正房の娘。
はじめ織田信雄(織田信長の次男)の家臣・佐久間正勝に仕え、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは織田・徳川連合軍の一員として尾張国大野城を守備して豊臣軍と戦った。天正14年(1586年)、家督を相続する。天正18年(1590年)、主君の織田信雄が豊臣秀吉の駿河転封を拒否して改易となったため、信雄に従って下野にまで従う。その後、徳川秀忠の家臣となり、5000石を賜った。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、秀忠軍に従って真田昌幸が守る信濃上田城攻撃に参加する。その戦功により戦後、常陸牛久1万石の大名となるが、慶長18年(1613年)に大久保忠隣の養女(石川忠義の娘)と嫡男・山口重信が勝手に縁組したことを咎められて改易されたうえ、武蔵の龍穏寺に蟄居させられた。これは、大久保長安死後の長安事件に連座してのことである。
しかし重政の山口家再興にかける執念は凄まじく、翌年に大坂の陣が始まると、徳川家康に対して「自分が豊臣氏に入って、豊臣秀頼を暗殺するから、代わりに御家再興を許してほしい」とまで進言している。しかし、これは家康によって拒絶された。慶長20年(1615年)の夏の陣では、井伊直孝軍に属して若江の戦いで活躍し、その戦功により寛永5年(1628年)、常陸国牛久で1万5000石の大名に返り咲いたうえ、奏者番に任じられた。寛永12年(1635年)9月19日に死去。享年72。
正室は小坂雄吉の娘。子に重信、弘隆、重恒。養女は高木正成室。子孫は牛久藩として続く他、水戸藩の家臣として続く者もあった。
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