山本唯三郎
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山本唯三郎(やまもと たださぶろう、明治6年(1873年11月8日) - 昭和2年(1927年4月17日)は、明治から大正にかけて活躍した実業家。
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[編集] 略歴
山本唯三郎は1873年、岡山県久米郡鶴田(現岡山市)で、鶴田藩士である坂斉正雪の2男として生まれた。まだ幼児の時に養子に出され、豆腐屋の小僧として働いていたが、10歳の頃に歩いて大阪に出て、新聞社の活字拾いをしながら夜は英語の学校に通う苦学をした。
16歳の時、いったん帰郷し兄の援助で閑谷学校に通い、続いてかつて兄が通った同志社に学ぶも、兄からの援助が滞るようになって同志社は中退に追い込まれた。しかし山本は札幌農学校で学問を続けることが出来た。
札幌農学校を卒業後、まず石狩平野で開拓事業を手がけ、大地主となって成功を収めた。約10年間北海道で開拓事業に従事していたが、続いて中国の天津に渡り、石炭販売業を始めた。山本は松昌洋行という貿易商社を設立して石炭や材木の貿易に従事していたが、第一次世界大戦の開戦を見て船舶輸送業を強化、これが見事に当たり巨万の富を築いた。山本唯三郎は大戦景気で成功した典型的な船成金であった。
1916年(大正5年)衆議院の補欠選挙が岡山県で行われ、山本も出馬するも落選。また同志社に図書館を寄付するなど、社会事業にも手を染める。1920年(大正9年)再び衆議院選挙に出馬するも落選、本業の実業家としても第一次世界大戦終了後の不況の波をもろに被り、あっという間に財産を食いつぶしていくことになる。 築き上げた財産を全て使い果たした山本は、1927年(昭和2年)に死去した。
[編集] 虎大尽
山本唯三郎はその並外れた金の使いっぷりで知られた。その中でも特に1917年(大正6年)に朝鮮半島で大規模な虎狩り、名づけて山本征虎軍を行ったことが有名である。山本は自らを「勤勉力行」の人物たることを証明するために虎狩りを行うと称したが、世間では前年の総選挙で山谷虎三に敗れ落選したため、虎三に敗れた腹いせで本物の虎を狩る決断したと噂された。
この虎狩り、規模が尋常ではなく、マスコミ関係者を含め総勢31名、現地で雇用した猟師やポーターを含めるとなんと150名にもなった。山本征虎軍は全体を8班に分け、1~5班は咸鏡道方面、7・8班は全羅南道で虎狩りを、そして6班は別働隊として金剛山で熊狩りを約1ヶ月間にわたって繰り広げた。彼らは自作の「征虎軍歌」、「虎来い節」などという歌を歌い、征衣を身に纏い虎狩りに赴いた。
1ヶ月間の成果は虎2頭、その他豹、猪、鹿など貨車1両分になったという。虎狩り終了後、まず京城の朝鮮ホテルで、山縣伊三郎朝鮮総督府政務総監らを招き、虎などの獲物の試食会を行い、更に東京に到着後、帝国ホテルに清浦奎吾枢密院議長、田健治郎逓信大臣、仲小路廉農商務大臣、渋沢栄一、大倉喜八郎ら200余名を招き、大々的な虎肉試食会を行った。
当日は食堂の内外に虎狩りにちなんだ竹林を配し、獲物の虎、豹、熊、鹿などの剥製を展示、山本唯三郎自身が虎狩りの実演談を語り、更には舞台では虎狩踊りなどを披露した。しかし肝心の虎肉はトマトケチャップでマリネにして提供されたが、臭い上にボロボロと固く、試食に耐えられるものではなかったという。
山本唯三郎はこの破天荒な虎狩りで世間から虎大尽と呼ばれるようになった。
[編集] その他の奇行
山本唯三郎はその他にも巨万の富にあかせて様々な奇行を行った。越中ふんどし1万本を携え欧米を漫遊して「気を引き締めてもらうため」と称し、各地に在住の日本人に贈呈したり、函館の料亭で大散財のあげくに玄関に出て履物を履こうとしたところ暗くて良く見えないため、懐から100円札の束を取り出し火をつけたりもした。
またある料亭では座敷一面に豆腐を敷き詰め、大勢の芸妓に揃いの衣装を着せて、青く塗った箸を苗に見立てて豆腐に植えさせる田植え遊びをした。そして特別列車に芸妓を大勢乗せて東京から京都に繰り出したり、箱根では芸妓を総揚げして裸の分列行進をさせるなど、まさに放蕩の限りを尽くした。
[編集] 佐竹本三十六歌仙絵巻
山本唯三郎は旧秋田藩主佐竹家から、佐竹本三十六歌仙絵巻を35万5000円で購入した。しかし第一次世界大戦後の不況のため、早くも1919年(大正8年)には売りに出されることになった。しかしあまりの高額のため一括しての買い手がつかず、三十六歌仙一人一人が切り売りされることになってしまった。
[編集] 参考文献
- 征虎記 1918年 吉浦龍太郎著
- 岡山の奇人変人 1977年 蓬郷巌著 日本文教出版株式会社
- カネが邪魔でしょうがないー明治大正・成金列伝 2005年 紀田順一郎著 新潮社