閑谷学校
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閑谷学校(しずたにがっこう)は江戸時代前期に岡山藩によって開かれた庶民のための学校。所在地は岡山県備前市閑谷。校地は国指定特別史跡、講堂は国宝。
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[編集] 概要
岡山藩主池田光政によって開設された世界最古の庶民学校である。藩士のための教育施設(藩校)「花畠教場」に続き、岡山藩立の学校として開かれた。地方の指導者を育成するために武士のみならず庶民の子弟も教育した。また、広く門戸を開き他藩の子弟も学ぶことができた。就学年齢は8歳頃から20歳頃までであった。カリキュラムは1と6の付く日には講堂で儒教の講義があり、5と10の付く日は休日となっているなどであった。 頼山陽などの著名人も来訪し、幕末には少年時代の大鳥圭介もここで学んだ。
岡山藩は学校領を設け藩財政より独立させ、学田や学林を運営させた。これにより、もし転封や改易により藩主が交替となった場合においても学校が存続するよう工夫した。ここに岡山藩がこの学校をいかに重要視していたか、その一端が伺える。
建造物のうち、講堂が国宝に指定され、小斎・飲室・文庫・聖廟・閑谷神社・石塀など24棟が国の重要文化財に指定されている。また、付近一帯は国の特別史跡に指定されている。
[編集] 沿革
- 慶安4年(1651年)熊沢蕃山が閑谷学校の前身となる庶民教育の場「花園会」の会約を起草。
- 寛文6年(1666年)池田光政が和気郡木谷村付近を視察。
- 寛文8年(1668年)木谷村延原(現在の備前市閑谷)に手習所を設置。
- 寛文10年(1670年)津田永忠を奉行に手習所を拡張し閑谷学校の建設が始まる。延原を閑谷と改称。
- 延宝元年(1673年)講堂完成。翌年に聖廟が完成。
- 天和2年(1682年)光政没、享年74。
- 元禄14年(1701年)新たな講堂が完成。全容が整い現在の姿となった。
- 元禄15年(1702年)御納所(椿山)が学校敷地の東隣に造営され、光政の遺髪・爪等がここに納められた。
- 宝永4年(1707年)津田永忠没、享年68。
- 文化11年(1814年)頼山陽が来遊。
- 明治3年(1870年)閑谷学校閉校。
- 明治6年(1873年)山田方谷を招聘し、閑谷精舎として再開。
- 明治17年(1884年)西毅一により閑谷黌として開校。
- 明治36年(1903年)私立旧制閑谷中学校となる(校長・西毅一)。
- 明治38年(1905年)学房跡に新校舎(現在の閑谷学校資料館)が完成。
- 大正10年(1921年)岡山県に移管され岡山県閑谷中学校となる。
- 大正11年(1922年)閑谷学校が国の史跡に指定される。
- 昭和13年(1938年)講堂、聖廟、神社等25棟が旧国宝に指定される。
- 昭和23年(1948年)学制改革により閑谷中学校は岡山県立閑谷高校となる。翌年、岡山県立和気高校閑谷校舎(現在は岡山県立和気閑谷高等学校)となった。
- 昭和25年(1950年)文化財保護法の制定により、講堂、聖廟、神社等25棟は重要文化財となった。
- 昭和28年(1953年)講堂が国宝に指定される。
- 昭和29年(1954年)特別史跡となる。
- 昭和39年(1964年)和気高校閑谷校舎閉鎖。
- 昭和40年(1965年)旧閑谷校舎は岡山県青少年教育センター閑谷学校となる。
- 平成7年(1995年)岡山県青少年教育センター閑谷学校が移築となり、旧校舎は資料館となった。
[編集] 指定文化財
[編集] 国宝
- 旧閑谷学校講堂(附 壁書1枚、丸瓦1枚)
[編集] 重要文化財
- 旧閑谷学校
- 小斎
- 習芸斎及び飲室
- 文庫
- 公門(附 左右練塀)
- 石塀(附 飲室門)
- 旧閑谷学校聖廟
- 大成殿
- 東階
- 西階
- 中庭
- 外門
- 練塀
- 文庫
- 厨屋
- 繋牲石
- 石階
- 校門(附 左右練塀)
- (附 石橋)
- 閑谷神社(旧閑谷学校芳烈祠)
- 本殿(芳烈祠)
- 幣殿(階)
- 拝殿(中庭)
- 中門
- 神庫
- 石階
- 練塀
- 繋牲石
- 閑谷学校関係資料4,041点
[編集] 関連項目
- 日本の史跡一覧
- 日本教育史
- 岡山県立和気閑谷高等学校
- 閑谷校 (小惑星)…閑谷学校に由来して命名された小惑星