岩剣城
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岩剣城(いわつるぎじょう)は鹿児島県姶良郡姶良町脇元にある中世城郭。
島津義久、義弘、歳久の初陣の合戦が行われた城として、また、鉄砲が日本史上初めて実戦で使われた城として有名である。
[編集] 沿革
薩摩国の国人の一人・祁答院良重が建設したと伝えられるが、築城時期の詳細は不明である。
天文年間、祁答院良重は菱刈隆秋、蒲生範清と組んで島津貴久に反旗を翻した。天文23年、菱刈、蒲生連合軍が島津側の武将・肝付兼演の居城である加治木城を攻め、貴久は加治木城を救援するため祁答院良重の住む岩剣城を息子の島津義久、義弘(当時「忠平」)、歳久に攻めさせる。岩剣城は三方を断崖に囲まれた天然の要塞であり、良重もよく籠城して耐えたが、救援に来た蒲生範清が島津側に撃退されると孤立無援となり、最後は籠城した女性が化粧道具を投げてまで応戦したが多勢に無勢は明らかで、ついに良重主従は岩剣城を捨てて本拠のあった祁答院(現薩摩川内市祁答院町)に逃亡し、岩剣城は落城した。残された女性は城の断崖から身投げして自害したという。
その後、この城の城代に島津義弘が任命されて入城したが、城の立地はあまりにも不便であり、麓に「平松館」を築いて、その後永禄7年に飯野城に転出するまでここを本拠とした。義弘が転出した後の岩剣城と平松館の状況は不明である。
文禄頃には義弘の娘で島津朝久未亡人となった御屋地とその子供がこの平松館に居住していた。
慶長11年、義弘は再びこの平松館を居所とするが、わずか1年後の慶長12年には加治木城に転居し、岩剣城は実質的に廃城となった。
平松館は元文2年に島津継豊の弟・忠紀が越前島津家を再興したときにその居館となり再建される。その後明治まで使われていた。ちなみに最後の住人は島津久光の子息・珍彦である。
[編集] 現状
前述したように岩剣城は三方を断崖に囲まれた山の上に築かれた城であり、山上には当時の曲輪や空堀などが良好に残っているものの、見学はきわめて困難である。
平松館の方は現在は姶良町立重富小学校となり、周囲に当時の石垣が残っている。
[編集] 関連項目
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