工藤祐経
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工藤祐経(くどう すけつね、生年不詳 - 建久4年5月28日(1193年6月28日))は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。工藤祐継の子。左衛門尉。
父の祐継が死に祐経が所領を継ぐと、叔父の伊東祐親が後見人となり、祐経は祐親の娘・万劫御前を妻とする。祐経は上洛して平重盛に仕えるようになる。歌舞音曲に通じており、「工藤一臈」と呼ばれた。だが、祐経が在京している間に祐親は祐経の所領を横領してしまい、妻の万劫御前まで奪って土肥遠平に嫁がせてしまう。
祐親を深く怨んだ祐経は、1176年10月、郎党に祐親の狩の帰りを狙い打たせる。刺客の放った矢は祐親の嫡男・河津祐泰に当たり、祐泰は死ぬ。祐泰の妻の満江御前とその子、一萬丸(曾我祐成)と箱王(曾我時致)が残された。
1184年、一ノ谷の戦いで捕虜となり、鎌倉へ護送された平重衡を慰める宴席で鼓を打ち、今様を歌っている。同年、源範頼の軍に加わり、山陽道を遠征し豊後国へ渡る。
1186年4月、静御前が鶴岡八幡宮社前で白拍子の舞を行ったときに、鼓を打った。
歌舞音曲に通じ教養のある祐経は、頼朝に重用された。
1193年5月、頼朝は、富士の裾野で盛大な巻狩りを開き、祐経も参加する。巻狩りの最後の日の5月28日深夜、曾我祐成と時致の兄弟が祐経の寝所に押し入り、祐経は父の仇として兄弟に討たれた。(曾我兄弟の仇討ち)