山陽道
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山陽道(さんようどう、せんようどう、かげとものみち)、影面道、光面道(かげとものみち)
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[編集] 行政区画としての山陽道
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五畿七道の一つで、本州の瀬戸内海側を指す。畿内の西に位置し、現在の兵庫県西部から山口県までに至る瀬戸内海沿岸を総称した。
以下の順番で列べる事が多い。
[編集] 道路としての山陽道
[編集] 律令時代
律令時代の道路としての山陽道は、畿内(難波京、平城京、平安京)と北九州(大宰府、博多)を結んでいた。外国の使節が通行し、宿泊する事が想定されたため、七道の中で唯一の大路に格付けされ、最重視された。
平城京、平安京などの都の変遷に応じて、道路の東端は変化した。古代の山陽道は道幅約6mから9m、道筋は直線的で、各国の国府を効率良く結んでいた。本道から外れた美作国へは、播磨国から西北に道路が伸びていた。
[編集] 江戸時代
江戸幕府は、五街道を筆頭にする街道整備政策の延長線上に、山陽道の整備を置いた。宿駅は42箇所設置された。江戸時代の山陽道は西国街道とも呼ばれており、京都と下関を結んでおり、下関から関門海峡を越えて小倉へと至った。これは、江戸と長崎を結ぶ幹線道路の一角でもあった。
[編集] 明治時代以後
明治政府は、国道に番号を付けて管理する制度を採った。江戸時代までの山陽道は、明治時代には東京と神戸を結ぶ国道3号(2号から京都で分岐)、東京と長崎を結ぶ国道4号の一部に;大正時代には東京と鹿児島を結ぶ国道2号(1号から三重県で分岐)の一部になった。
現在では、大阪と小倉を結ぶ国道2号に、山陽道は引き継がれている。しかし、律令時代や江戸時代の物とは異なる道筋の部分も多い。
又、鉄道の山陽本線や山陽新幹線、高速道路の山陽自動車道も、ほぼ古来の山陽道に沿って敷設された。現代においても、近畿地方と九州を結ぶ機能は律令時代から同じである。
現在において「山陽道」と呼んだ場合には、律令時代や江戸時代の山陽道に沿った道路を指すが、山陽自動車道の略称として用いられる事もある。