平岩親吉
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平岩 親吉(ひらいわ ちかよし、天文11年(1542年) - 慶長16年12月30日(1612年2月1日))は戦国から江戸時代の徳川氏家臣。平岩親重の子。幼名は七之助。官位は従五位下・主計頭。徳川十六神将の一。
三河生まれ。徳川家康と同年であったことから、人質時代から家康に付き従った。天文16年(1547年)、小姓として駿府に送られる、6歳。永禄元年、17歳で初陣。家康の信任は厚く、三河統一や遠江平定などで戦功があり、家康の嫡男・松平信康が元服すると、その傳役として信康を補佐した。しかし天正7年(1579年)、織田信長の要求もあって信康が自害すると、責任を感じて蟄居謹慎したが、後に家康に許されて、再び直臣に復帰した。
天正10年(1582年)、本能寺の変で織田信長が横死すると、家康は空白地甲斐を奪取した。この時甲斐の郡代として武田旧臣を慰撫し国内経営に腐心した。天正18年(1590年)、小田原征伐に戦功をあげ、関東に移封された家康に従い厩橋3万石を与えられた。慶長6年(1601年)、再び甲斐に戻り甲府築城、6万石。
慶長8年(1603年)、先年死んだ養子・仙千代の弟徳川義直が甲斐25万石に封ぜられると、義直を後見し執政する。慶長11年(1606年)義直が尾張名古屋藩主に転ずると義直付家老として尾張に移り藩政を執行し、また犬山藩主として計12万3000石を領した。慶長16年(1611年)の暮れ、名古屋城で死去、享年70。
親吉には嗣子が無く、平岩氏が断絶することを惜しんだ家康は8男仙千代を養嗣子として与えていたが、残念なことに仙千代は夭折してしまった。そのため自身の死後、犬山の所領は義直に譲るように遺言していたと言う。しかし家康は、親吉の家系が断絶することをあくまでも惜しみ、その昔、親吉との間に生まれたという噂のあった子を見つけ出し、その子に平岩氏の所領を継がせようとした。これを見ても、3人もの自らの子を預けた事を見ても、家康が如何に信頼していたことがわかるであろう。しかし、その子の母が、この子は親吉の子供ではないとしたため、結局、平岩氏は慶長16年(1611年)の親吉の死をもって断絶した。
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