松平信康
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松平 次郎三郎 信康(まつだいら じろうさぶろう のぶやす、永禄2年3月6日(ユリウス暦1559年4月13日) - 天正7年9月15日(ユリウス暦1579年10月5日))は、徳川家康(出生当時は松平元康)の嫡男。 安祥松平家七代当主。岡崎城主であったため、祖父・曽祖父と同様に岡崎三郎(おかざきさぶろう)を名乗った。
母は正室の築山殿。築山殿は関口義広の娘で今川義元の姪にあたる。妻は織田信長の娘の徳姫。長女の登久姫(峯高院)は小笠原秀政の妻、次女の熊姫(妙光院)は本多忠政の妻。家康の嫡男であるが、松平宗家の居城である岡崎城主を務め、徳川氏を継ぐことなく死去したが、今日では徳川 信康(とくがわ のぶやす)と表記されることも少なくない。
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[編集] 生涯
今川氏の人質として幼少期を駿府で過ごしたが、桶狭間の戦いの後に徳川軍の捕虜となった鵜殿氏長との人質交換により岡崎城に移る。
永禄5年(1562年)、徳川家康と織田信長による清洲同盟が成立。永禄10年(1567年)、信長の娘である徳姫と結婚した。この際、信長より「信」の一字を与えられ信康を名乗る。
信康は若い頃から勇猛果敢で、対武田氏との戦いでいくつもの軍功を挙げ、父・家康から岡崎城を預かり、岡崎衆を率いて家康をよく補佐したという。
だが気性が激しく、領内の盆踊りにおいて服装の貧相な者を、また踊りの下手な領民を射殺したとか、重臣達を重んぜず、しばしば家臣の面前で重臣を辱めることがあったとの風説も残っている。
また織田の血を引く妻と今川の血を引く母との折り合いが悪く、天正7年(1579年)、徳姫は父・信長に対して信康と築山殿が武田勝頼(武田信玄の四男)と内通したと訴える。これに対して信長は家康に妻の築山殿と嫡男の信康の処刑を要求した。家中ではこれに反対する声が強く、信長との同盟破棄を主張する家臣もあった。事件の発端となった徳姫自身が信康弁明の為に安土に居る父・信長に会いに行くと家康に頼み込んだり、傳役の平岩親吉は信康ではなく自らの首を信長に差し出すことを求めるが、家康は信康の処断を決断し、8月29日、まず築山殿を二俣城への護送中に殺害、さらに9月15日、事件以降の幽閉先であった二俣城にあった信康の切腹を命じた。信康は二俣城主で家康の信頼厚かった大久保忠世に自らの無実を改めて強く主張し、服部半蔵の介錯で自刃した。このとき、(浜松城に勤めていた関係でほとんど面識など無かったはずの)半蔵が涙のあまり刀を振り下ろせず、検死の武士(天方道綱)が代わって介錯したとの話も残る。
[編集] 信康自刃の謎
だが、この処刑事件は怪しい風説が幾つも残っている。まず信長が処刑を要求した理由にも諸説があってよく分かっていないが、自分の嫡男の織田信忠より優れた器量を持つ信康の将来を恐れたのではないかと言われているのが通説であった(ただし、この説には近年異論もあり、むしろ異論の方が有力になってきている。織田信忠を参照)。また、家康も信康の死を痛く悲しみ、関ヶ原の戦いで徳川秀忠が遅参したとき、「信康がいればこんな思いをしなくて済んだ」と言うなど、後世にいくつもの逸話が残されているが、これらはいずれも出来すぎた話が多く、信憑性に欠けている。更には信康の人柄については殉死者を出すほどの人望があったと言う説と反対に残虐行為を繰り返したという説の両方が伝わっているのも謎とされている。最後に家康が築き上げた信康の墓は質素なもので、改葬すらしていなく、事件の発端となった徳姫に対し、いくら織田家への配慮とはいえ、家康が2,000石の領地を与えている理由もよくわかっていない。そもそも徳姫自体、父である信長に自分の夫である信康と、姑である築山殿が武田氏と通じていた事を報告していると書かれた歴史小説もあるが、史実の徳姫は事件の最中、夫である信康の助命嘆願を行っている。父、信長によって討たれた今川義元を養父とし、今川氏の血筋を引いている築山殿とは折り合いが悪かった可能性もあるが、何故か連座で信康も信長に処刑されようとされていることは不自然である。いくら、対等の同盟ではないとは言え、頼りになる同盟者である家康の妻とその息子を処刑せよなどという無茶で、どうやっても遺恨が残る要求を信長が行ったとは考えにくい。
実際、この時期の信長は相撲や蹴鞠見物に興じており、とてもそのような緊張関係を同盟者に強いていた様子が伺えないからだ。 さらにこの時期の徳川家は常に前線で活躍し武功と出世の機会を多くつかんでいた浜松城派と、怪我で戦えなくなった者の面倒や後方支援や(対織田家の)外交問題を担当していた岡崎城派に分裂する兆しがあった上、信康の処刑と前後して岡崎城に勤める多くの重臣や奉公人が次々と懲罰や処刑に追い込まれ、逐電(逃亡)する者が続出していたという事実もあった。
このため近年では、家康が信長に要求された為というより、家康自身の事情で築山殿と信康を葬り去ったか、浜松城派と岡崎城派との対立で家康が岡崎城派を危険視し弾圧した際、巻き添えで信康が切腹か暗殺に追い込まれたとのが見方が強くなっている。また、この事件から徳川家康の影武者説(世良田二郎三郎元信)や武田氏での「義信事件」のように信康周辺における「家康追放」未遂事件があったとする説などが浮上している。
[編集] 主な家臣
[編集] 信康を題材とする作品
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