幸福
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幸福(こうふく、Happiness、Happy)とは、欲求が満たされ、不足や不安を感じず、安心している心理的状態のこと。ヒトに拠らず、様々な生物にもこれに相当する状態があるとされる。
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[編集] 概要
この状態は、極めて主観的なものである。故に個人・個性の数だけ、その様式が存在する。
いわゆる"客観"的にそのような状態が、ただひとつの決まった外形的様式としてあるわけではない。例えば、誰かが "幸福ではない" と見える外形的状況にいるとしても、その評価はあくまで観察者の主観におけるものであり、もしもその状況を当人が主観的に幸福だと感じていれば、それは幸福の一形態である。
又、一人の人間の内においても、幸福は相対的なものであり、以前に満たされなかった欲求が満たされれば、それは以前の状態に比べて幸福であろう。しかし、この欲求の正体が分からず、自分が何を求めているかが理解出来ずに焦燥感に駆られる人や、欲求に主導権を譲り渡してしまったことで、欲求が限りなく膨張しつづけそれを満たしつづけることが出来ず苦しむ人も少なくない。この辺りは「曲肱の楽しみ」(曲肱:肘枕で寝る事・貧しい事の例え)等の語が端的に表している通り、「楽しい」「幸福である」という状態は、その主観において主体的に見出す事であり、如何なる状況においても「ものの見方」を変えたり、自らの「心のありかた」を意識的に選び取ることよって見出すことができるとされている。
[編集] 幸福と法律
なお、法律でも幸福は扱われている。基本的人権には幸福追求権が含まれており、法律上誰でも等しく幸福になる権利を有していると考えられている。この幸福追求権は、他人の幸福追求権を不当侵害しない限りに於いて、制約される事は無い。他の表現をするならば、いくら己の幸福を追求していようが、他者の幸福を侵害しないことには注意を払う必要がある、ということである。
[編集] 幸福論
人間は古来より幸福になるための方法に深い関心を寄せてきた。幸福についての考察や、幸福であるためにはどのような生き方をすべきであるか、その方法論を提示した文章・書物は、一般に「幸福論」と呼ばれている。
[編集] 幸福論(宗教の役割)
ヒトは、より豊かな生活を求め、或いは死後の世界に思いを巡らせ、幸福を求め続ける課程で宗教にすがる。原始時代では、シャーマニズムによる精霊を信じ、文明の勃興とともにより洗練された宗教が興る。宗教は、しばし政治活動にも悪用されることがあったが、本質的には幸福を求める各個人に内在する精神世界であるため、政教分離が可能となる。 一方、東アジアで興った儒教は、その目的が幸福の追求でなく「望ましい人間像」であるため、為政者に好都合に悪用され尽くし、今日の東アジア地域の民族の論理性欠如、の原因となってしまった。
[編集] 幸福の複雑性
例えば、医師としての適性が現実には無いにも拘らず、高校生としての安易な感性で決めた将来の職業として医師を希望し、望みどおりに医学部に合格することは、一見幸福かもしれないが、長い目で見てその人物の人生を狂わしてしまう。「人の幸・不幸は棺おけの蓋閉めるまでは分からない」という格言があるとおり、ある現象が、その人物にとって果たして本当に幸福か否かは、その後の長い期間を経過しなければ、単純には判別出来ない複雑性がある。
古代中国の故事で「人生万事塞翁が馬」というものがある。ある村に、老人とその息子とが暮らしており、或る日家の馬が突然逃げ出してしまった。周囲の人々は盛んに気の毒な親子に同情してくれたが、老人は「不幸かどうかは果たして分からんよ」と、意にも介さない。間も無く、逃げ出した馬は、雌馬を連れて親子のもとに戻ってきた。周囲の人々は盛んに親子の幸福を感心したが、老人は「幸福かどうかは果たして分からんよ」と意にも介さない。間も無く、息子が乗馬した雌馬から落馬して、息子の脚が不自由となってしまった。周囲は盛んに同情したが老人は「不幸かどうかは果たして分からんよ」と意に介さない。間も無く戦争が始まって村の若者は皆兵隊に徴収されて戦死してしまったが、息子は脚が不自由のため村に残ることが出来た。こうして、老人と息子とは末永く幸せに過したという話である。
[編集] 幸福の病理性(うつ病)
ある人物が幸福であるか否かは、上述の様に、客観的なものではなく、あくまでも主観的な感情であるため、周囲から判断することは困難である。幸福感を得られなくなる病気としてうつ病がある。この病気は、絶望感で悶絶する苦しいものであり、患者本人にとってうつ病程苦しい病気は余り無い。性格的或いは習慣的に「前向き思考」や逆に「後ろ向き思考」という捉え方があるが、うつ病の状態では、何ごとに対しても、そもそも思考自体が困難に陥り、唯々深い絶望感に苛まされる。発症のキッカケは様々であるが、PTSD等極度の不幸な事件がキッカケとなることも多い。