忍城
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忍城(おしじょう)は、武蔵国忍(現在の埼玉県行田市)にあった城。別名は忍の浮き城、亀城。埼玉県指定旧跡。
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[編集] 構造
湿地帯を利用した平城。元々沼地だったところを埋め立てずに、点在する島に橋を渡す形で作られた。当初は櫓を立てずに本丸は空き地とし、二の丸に屋敷を作りそこを住まいとした。そのため攻めにくく守りやすい城であった。 当時の沼の名残は現在水城公園に見て取れる。
[編集] 歴史
[編集] 戦国時代
1478年頃、地元の豪族であった成田正等・顕泰父子(従来は成田親泰の築城とされてきたが、近年の研究で成田氏系譜の誤りが判明して親泰の祖父とされる正等の築城と考えられるようになった)がこの地を支配していた扇谷上杉家に属する忍一族を滅ぼし、築城したといわれている。翌年、これに反発する扇谷上杉家に忍城を攻められるものの、同家家宰太田道灌の仲介によって許されて以後、成田氏が領有した。河越夜戦後、北条氏の勢力が関東に及んでくるが、成田氏はこれに反発。1553年に北条氏康が忍城を攻めるが、攻略ならず。
1559年、上杉謙信が関東に遠征してくると、これに恭順。1561年の上杉謙信による小田原城攻めに当時の城主の成田長泰も参加。しかし、鶴岡八幡宮での関東管領就任式で謙信に無礼を咎められて離反する。1574年には上杉謙信に忍城が包囲されるが、持ちこたえている。
1590年の小田原征伐の際、城主・成田氏長は小田原城にて篭城。家臣と農民ら三千の兵が忍城に立てこもる。豊臣方の忍城攻めの総大将は石田三成。三成は、本陣を忍城を一望する近くの丸墓山古墳(さきたま古墳群)におく。ここで、近くを流れる利根川を利用した水攻めを行うことを決定する。(ただし、当時の書状によれば、石田三成は忍城水攻めを批判しており、また当時一介の奉行でしかなかった三成の身分からしても、独断で行えるはずはないとする指摘もある)彼の判断で石田堤の建設を始める。堤の長さは、28kmにも及んだ。しかし、忍城は結局落城することなく、小田原城が先に落城。結局は開城となり、忍の浮き城の別名が付くきっかけとなる。
[編集] 江戸時代
徳川家康が関東入府後は、家康の四男の松平忠吉を忍城に10万石で配置。以後、忍藩の政庁となった。阿部氏が入ると拡張整備が行われ、1702年頃、完成したと考えられている。
忍城の城下町は、中山道の裏街道宿場町としての機能や、近くの利根川から運ばれる物流路としての機能を持ち栄える。特に江戸時代後期からは、足袋の産地として名をはせるようになる。
[編集] 明治時代
廃藩置県の時、忍県の県庁が二の丸に置かれる。その後、廃城となりほとんど破壊されてしまう。
[編集] 現代
その後は野球場などとして利用されていたが、1988年2月17日、御三階櫓などが復興される。 櫓は展望室や行田の今昔を写真や資料で紹介する展示室になっており、行田市郷土博物館から入館できる。また、周囲には土塁の一部が残存している。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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