成島柳北
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成島 柳北 (なるしま りゅうほく、1837年2月16日-1884年11月30日)は江戸時代・幕末期の徳川幕府・将軍侍講、奥儒者、文学者、ジャーナリスト。東海道は武蔵国、浅草御廐河岸(現・東京都台東区蔵前2丁目)の松本家の3男として生まれた。幼名:松本甲子麿(こしまろ)→甲子太郎(こしたろう)→惟弘(これひろ)。のちに代々奥儒者の家柄である成島家へと養子に出され、第7代目奥儒者・成島稼堂の養子となり、成島姓となる。そして、養父の跡を継ぎ、第8代目奥儒者と相成り、成島柳北と名乗るようになる。明治時代以降はジャーナリストとしても活躍。また、遠い親戚に俳優の森繁久彌がいる事でも著名。
成島家は19世紀前半から「徳川実紀」、「続徳川実紀」などの編纂を続けており、柳北も長じてこれに従った。徳川家定、家茂に侍講するが、献策が採用されないため狂歌で批判し、解職される。この際、洋学を学ぶ。また、慶応年間に騎兵奉行、外国奉行(3千石.従五位下.大隅守)、会計副総裁等を歴任。
明治維新後、東本願寺法主の大谷現如の欧州視察随行員として明治5年、共に欧米を巡る。欧州では岩倉具視、木戸孝允らの知遇を得、特に親交のあった木戸からは帰国後、文部卿の就任を要請されたが受けなかった。後に大槻磐渓の紹介によって、1874年に『朝野新聞』を創刊、初代社長に就任。言論取締法の「讒謗律」や「新聞紙条例」を批判した。自由民権運動の中では、社論は大隈重信の改進党に近く、大隈の設立した早稲田大学の初代の議員にも就任している。また文芸雑誌「花月新誌」を創刊し文芸界でも活躍。商法会議所(現商工会議所)の設立、墨田川河畔の桜植樹等にも尽力、前米大統領のグラントの接遇委員も勤めた。1884年11月30日、胸の病のため、47歳(当時48歳)という若さで死去。
「柳橋新誌」(初編安政6年執筆、2編明治4年執筆)は柳橋(現在の台東区柳橋)の花柳界を描いた戯作であるが、明治維新前後の転換期にあたって、江戸と明治の世相の変遷も描いている。
カテゴリ: 日本のジャーナリスト | 自由民権運動の人物 | 1837年生 | 1884年没