ユリシーズ・S・グラント
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アメリカ合衆国18代大統領
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任期: | 1869年3月4日 – 1877年3月4日 |
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副大統領: | シェイラー・コルファクス(1869年 - 73年) ヘンリー・ウィルソン(1873年 - 75年) |
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出生日: | 1822年4月27日 |
生地: | オハイオ州ポイント・プレザント |
死亡日: | 1885年7月23日 |
没地: | ニューヨーク州マウント・マクレガー |
政党: | 共和党 |
配偶: | ジュリア・デント・グラント |
ユリシーズ・シンプソン・グラント(Ulysses Simpson Grant, 1822年4月27日 - 1885年7月23日)は、南北戦争の将軍および第18代アメリカ合衆国大統領。
軍人としては成功した将軍であるが、彼は多くの歴史家からスキャンダルおよび汚職によってアメリカ最悪の大統領のうちの一人と考えられている。米墨戦争のあとは軍隊を辞して(酒に関するスキャンダルがあったとされるが定かではない)7年ほど職を転々としたがどれもうまく行かなかった。いわゆるコチコチの軍人型ではなかったようだがそれでも軍人以外の職業では全く良いところがなかった。ただし、彼が晩年マーク・トゥエインの勧めで彼の書いた南北戦争の回想録は名著であると言われている(マーク・トゥエイン本人は「ジュリアス・シーザーが書いた戦記等と並ぶほどの名著である!」と褒めちぎっていた)。
南北戦争で戦った将軍の中では南軍のロバート・リー将軍と並んで(またそのリー将軍を最終的に破ったことで)もっとも有名な将軍の一人である。
目次 |
[編集] 生い立ち
ヒラム・ユリシーズ・グラントはオハイオ州クレアモント郡ポイント・プレザントでジェシー・R・グラントおよびハンナ・シンプソン・グラントの息子として生まれた。彼の父親およびさらに彼の母親の父親はペンシルバニア州で生まれた。彼の父親は製革業者だった。1823年の秋に一家はオハイオ州ブラウン郡のジョージタウンへ移住した。グラントは17歳になるまでほとんどの時間をそこで過ごした。
17歳のときに彼は、下院議員トーマス・L・ハマーからニューヨーク州ウェストポイントのアメリカ陸軍士官学校への推薦を受け取った。議員は誤ってユリシーズ・S・グラントとして彼を登録した。彼は1843年に39人中の21番でウェストポイントを卒業した。
彼は1843年8月22日にジュリア・ボッグズ・デント(1826年 - 1902年)と結婚した。彼らは4人の子供をもうけた。フレデリック・デント、ユリシーズ・シンプソン・ジュニア、エレン・ワレンシャルおよびジェシー・ルート。
[編集] 軍歴
彼は、ザカリー・テイラー将軍およびウィンフィールド・スコット将軍の配下で米墨戦争に従軍し、ラサカ・デ・ラ・パルマ、パロアルト、モンテレーおよびヴェラクルスの戦いに参加した。彼は、モリノ・デル・レイの戦いでの功績で中尉に昇進し、チャプルテペクの戦いの後に中佐に昇進した。1854年7月31日に多量飲酒を理由に彼は軍隊を辞職した。辞職後はセントルイスで農場経営、不動産仲介業、そして最後にイリノイで父親の皮革・金物店の経理助手となった。
[編集] 南北戦争
南北戦争が勃発し、サムター要塞陥落の十日後、1861年4月24日にグラントはイリノイ州スプリングフィールドに彼が募った志願兵を連れて到着した。知事は彼を反抗的な第21イリノイ歩兵連隊の連隊指揮官(大佐)に任命した。その後グラントはハンニバル&セント・ジョセフ鉄道を守るためにミズーリ州に派遣された。この時点ではまだミズーリ州は南部連合と合衆国の間で揺れ動いており、南部に同情的だったクレイボーン・ジャクソン知事は武装中立を宣言して州に侵入する軍隊はどちらのであろうと攻撃すると宣言していた。ミズーリ州に「侵攻」した北軍は8月までにジャクソン知事を免職し、ミズーリ州を支配下に置いた。この行為はミズール州内の南部連合派の態度を硬化させ、北軍はこの後しばらく彼らの活動に悩まされることになる。
同8月、彼は志願兵の准将に昇進した。下院議員エリフー・ウォッシュバーンの進言にリンカーンが耳を傾けた結果だと言われている。8月末、グラントは西部戦域司令官ジョン・C・フリーモント少将により非常に重要な南東ミズーリ戦線を任されることとなる。
戦争後に連邦議会は、1866年7月25日に陸軍元帥の階級を新しく作成して彼を任命し、その労をねぎらった。
[編集] 大統領職
グラントは1868年5月20日にシカゴの共和党全国大会で満場一致で共和党大統領候補に選ばれた。その年の大統領選では、合計5,716,082の投票中3,012,833を得票し勝利した。
グラントの大統領職は、汚職とスキャンダルに悩まされた。特に連邦政府の税金から300万ドル以上が不正に得られたとされるウイスキー汚職事件。個人補佐官オービル・E・バブコックは不正行為に関与したとして起訴され、大統領の恩赦で有罪判決を回避した。ウイスキー汚職事件後に、陸軍省長官ウィリアム・E・ベルナップがアメリカインディアンとの販売・取引ポストと交換に賄賂を受けとったことが調査によって明らかになった。グラント自身が部下の不正行為から利益を得たという証拠がないが、彼は犯罪者に対する厳しいスタンスをとらず、彼らの罪が確定した後さえ、強く反応しなかった。
また馬車の速度違反で連行されたこともある。
1872年3月3日には、アメリカを訪問した岩倉使節団と会見した。
[編集] 内閣
職名 | 氏名 | 任期 |
大統領 | ユリシーズ・グラント | 1869 - 1877 |
副大統領 | シェイラー・コルファクス | 1869 - 1873 |
ヘンリー・ウィルソン | 1873 - 1875 | |
国務長官 | エリフ・B・ウォッシュバーン | 1869 |
ハミルトン・フィッシュ | 1869 - 1877 | |
財務長官 | ジョージ・バウトウェル | 1869 - 1873 |
ウィリアム・リチャードソン | 1873 - 1874 | |
ベンジャミン・ブリストウ | 1874 - 1876 | |
ロト・モリル | 1876 - 1877 | |
陸軍長官 | ジョン・A・ローリンズ | 1869 |
ウィリアム・シャーマン | 1869 | |
ウィリアム・W・ベルナップ | 1869 - 1876 | |
アルフォンソ・タフト | 1876 | |
ジェームズ・D・キャメロン | 1876 - 1877 | |
司法長官 | イビネザール・R・ホアー | 1869 - 1870 |
アモス・T・アカーマン | 1870 - 1871 | |
ジョージ・H・ウィリアムス | 1871 - 1875 | |
エドワーズ・ピアールポント | 1875 - 1876 | |
アルフォンソ・タフト | 1876 - 1877 | |
郵政長官 | ジョン・クレスウェル | 1869 - 1874 |
ジェイムズ・ウィリアム・マーシャル | 1874 | |
マーシャル・ジュウェル | 1874 - 1876 | |
ジェイムズ・ノウブル・タイナー | 1876 - 1877 | |
海軍長官 | アドルフ・ボリー | 1869 |
ジョージ・M・ローブソン | 1869 - 1877 | |
内務長官 | ジェイコブ・D・コックス | 1869 - 1870 |
コロンバス・デラノ | 1870 - 1875 | |
ザカリア・チャンドラー | 1875 - 1877 |
[編集] 大統領職後
大統領職二期目の終了後に、グラントは二年間世界中を旅行した。最初の訪問地はイギリスで、1877年のことだった。1879年6月には日本を訪れ、浜離宮で明治天皇と会見した。増上寺で松を植樹、上野公園で檜を植樹した。
グラントは1883年に全米ライフル協会の第8代会長に選ばれた。
1884年、グラント・アンド・ウォード商会の倒産後の負債で金銭的に困窮し回想録を執筆したが、すでに末期の喉頭癌で回想録が完成したのは死の数日前だった。回想録はベストセラーとなり、妻子に快適な収入を与えることとなった。彼は1885年7月23日にニューヨーク州サラトガ郡のマウント・マクレガーで死去した。彼は北アメリカで最大の廟、ニューヨーク市のグラント墓地に、妻と共に埋葬されている。
グラントシロカブトムシという虫に付けられたグラントは、彼の名前から付けたと言われているが誤りであり、実際はグラントシロカブトに付けられれているグラントは地名である。
グラントの肖像は50ドル紙幣に採用された。
ややうそ臭い話しとしてはこんな逸話もある。グラントに対して批判的な人物がリンカーン大統領の元を訪れ、大統領に「あの将軍はいつも酔っ払っている」と言ったところ、リンカーンは「ほう、そうかね。もし良ければグラント将軍がいつも飲んでいるウィスキーの銘柄を教えてもらえないか?(北軍の)他の将軍達に樽ごと送り届けたいのでね」と返答したとされる。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- First Inaugural Address
- Second Inaugural Address
- Scott, Candace, U.S. Grant homepage article on anti-Semitism
- Scott, Candace, Grant and Slavery
- White House Biography
- Emerson, Col. John W., Grant's Life in the West and His Mississippi Valley Campaigns, U.S. Grant Association website.
- [Adams's Education is Advanced by President Grant] Young Henry Adams, already an eye-witness to the Italian struggle for independence and Secretary to the United States' Ambassador to Great Britain (his father), votes for Ulysses S. Grant in the 1868 presidential election and looks on with interest to see how matters will unfold.
- [Grant Succumbs to Temptation, Hayes Gets the Nod (1876)] William Archibald Dunning recounts how President Grant refuses a third term in language so equivocal that it amounts to encouragement for his partisans. The result is a Congressional warning and the nomination of Rutherford B. Hayes.
- [Grant Tries for a Third Term (1880)] Edwin Erle Sparks describes how the 1880 Republican convention began with Ulysses S. Grant well in the lead and ended with James A. Garfield -- the darkest of dark-horses -- walking away with the nomination.
- Complete Bibliography
- プロジェクト・グーテンベルクにおける Works by Ulysses S. Grant
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