政党内閣
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政党内閣(せいとうないかく)とは、議会に議席を保持する政党を基礎に組織された内閣のこと。議院内閣制ともいい議会の信任に基づいて政権運営を行う。
[編集] 概要
政党内閣が典型的な発展を見せたのは17世紀後半のイギリスでホイッグとトーリーの両党派が相互に勢力を競い、後に自由党と保守党による二大政党制へと移行した。1900年前後に議院内閣制の慣行が確立されると政党内閣による政権運営が定着した。
現在ではイギリス以外でも日本も議会制民主主義(間接民主制)の制度を取り入れている諸国の内閣が政党内閣の形態である。ただし,アメリカ合衆国のように行政府の首長たる大統領が国民の選挙により選ばれ(直接民主制)、議院内閣制を採用されていない国では、政党政治が実施されていても、その政権をさして政党内閣とは呼ばない場合が多い。また、社会主義、共産主義国家やファシズム国家などに見られる一党独裁体制も政党が政権を掌握していたとしても政党内閣とはいえない。
日本では、明治維新の後、立憲政治・議会制度の創設が朝野で論議されるなかで、1870年代には福沢諭吉をはじめ三田派の言論人たちを中心に政党内閣制を採用するように主張され始めた。明治新政府内部でも明治14年(1881年)3月、参議大隈重信が意見書を提出。意見書ではイギリスをモデルとする議会政治の早期実現を主張し、政党内閣による政権運営を求めていた。だが、明治14年7月の右大臣岩倉具視が意見書を提出。岩倉は意見書で、プロシアをモデルとする立憲君主制の採用を求めた。
明治新政府の主要閣僚の多くは岩倉の意見書を支持。伊藤博文を中心として起草された大日本帝国憲法にはプロシアをモデルとした立憲君主制の原則が採用され、議院内閣制は制度化されなかった。
憲法発布の際、時の黒田清隆首相らは、超然主義を主張し、政府は政党の外に立って政策遂行にあたるべきことを説いた。それは政党内閣を否認するということであった。だが、憲法では議会に予算議定権および立法権が認められている以上、現実的には政府が議会の多数党を無視して政権運営にあたることは至難であった。
そのため、政権の安定を求めるとき、時の政権は議会第一党および多数の議席を保有する政党との連携が必須となった。第2次伊藤内閣の伊藤博文は衆議院の第一党である自由党と提携して連立内閣を成立された。そして、1898年には伊藤の強い推薦で憲政党の第1次大隈内閣(所謂「隈板内閣」)が成立。これは陸軍・海軍両大臣を除く全閣僚が憲政党員からなる日本初の政党内閣であった。
1900年には憲政党の旧自由党派を中心に伊藤を総裁として立憲政友会が結成された。これを基に第4次伊藤内閣が発足。
大正デモクラシーを背景に政党は勢力を伸張。1912年の第1次護憲運動の後、大正7年(1918年)9月に立憲政友会の原敬が内閣が組閣した。原内閣は閣僚の大部分が政党員であった。また原が衆議院に議席を有する現役衆議院議員の初の首相であったことから政党内閣として画期的存在とされた。
特に1925年の普通選挙により成立した護憲三派の加藤高明内閣から始まる政党内閣6代の頃には政党内閣は「憲政の常道」として定着した。
それらの背景には元老のなかでただ一人存命していた西園寺公望の意向があった。西園寺公望はイギリスの立憲政治を理想としており、政党内閣に比較的好意をもっていたからであった。しかし、憲法の規定として議院内閣制は制度化されてはいなかった。海軍・陸軍や枢密院、官僚などの勢力は、政党内閣の政権下でも依然として大きな政治的発言力を有しており、政党内閣による政権運営に介入していた。政党の対立の激化とともに、野党はしばしば海軍・陸軍、枢密院、官僚などの勢力と手を結んで、与党を攻撃することがあった。普通選挙は実現し、有権者は大幅に増加したが、それは政治資金の巨額化に伴うことであった。その結果、選挙資金を得るためという政治腐敗の増加を招いた。政党間の政権交替は総選挙という国民の審判を通じて行われるのが本来の形である。しかし、この頃の政党は官僚や軍、枢密院などの勢力と結んで倒閣をめざし、それを果たした野党が議会の少数派のままで組閣し、与党という有利な条件のもとで総選挙に勝って第一党へ躍進するという形式が政権交替の基本的形式となった。政党内閣は政党間の対立という困難な問題を処理できないままに1930年代を迎えた。そこに中国問題の深刻化、昭和金融恐慌、世界恐慌による経済危機、世界的な軍縮の流れに対する軍部の反発など、内外の危機に対して十分に対処しえなかった。その結果、海軍・陸軍、官僚、国家主義団体などを中心に政党政治への不満が高まった。そして1932年5月、海軍青年将校らによる犬養毅首相の暗殺(五・一五事件)をもって政党内閣は終わりをつげた。