敷香町
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[編集] 概要
樺太北部の中心都市であり、支庁所在地でもある。1941年現在の人口は30,310人である。 内務省の告示では、敷香の読みはしくかとされてはいるが、一般にはしすかという読みも広く使用され、行政文書ですら読み方が統一されていなかった。敷香の語源については、アイヌ語のシリ・トゥカリ(山の手前)という説がある。
NHKラジオ第2放送の気象通報でも以前は「敷香」としておなじみの地名である。
日本の領有下においては、国境に面する事から軍事上重要な地域とみなされており、第二次世界大戦の前後には上敷香を中心とする町内各地に陸軍部隊が駐屯していた。また、上敷香には海軍の飛行場も存在していた。
第二次世界大戦末期には、町内へ進攻したソビエト軍と、陸軍部隊との間で激しい戦いが行われた。この際、敷香市街は日本軍自身によって焼き払われ、大部分が消失したとされる(西牟田靖 『僕の見た「大日本帝国」-教わらなかった歴史と出会う旅』 情報センター出版局、2005年を見よ)またこの時、上敷香では日本の官憲の手による朝鮮人の殺害が発生したという(いわゆる樺太朝鮮人虐殺事件)
当該地域の領有権に関する詳細は樺太の項目を、現状に関してはサハリン州の項目を見よ。
[編集] 地理
敷香支庁管内の最北に位置する町村の一つであり、また当時は日本最北の町であった。町の東で散江村、南西で内路村と泊岸村、西で名好町と西柵丹村に隣接しており、町の北端は当時の国境である。樺太の中心都市・豊原市からは鉄道で7時間近くかかった。
町内には多来加地方を中心にウィルタやニヴフ等の先住民族が多く居住しており、オタスには樺太で唯一の先住民族のための学校が設置されていた。
幌内低地にはツンドラ地帯が広がり、幌内川が流れる。幌内川は、その源流を北緯50°以北の北樺太に発し多来加湾に注ぐ大河で、その全長は320km。当時は日本唯一の国際河川とも呼ばれていた。幌内川河口の東には、幌内低地東部の大部分を占める多来加湖が広がっている。面積180km²で、当時は国内第三位の広さを持つ湖沼であった。
[編集] 沿革
- 1908年 内務省告示により、敷香の読みをしすかからしくかに改称
- 1915年 「樺太ノ郡町村編制ニ関スル件」施行により、敷香支庁に敷香郡敷香村設置
- 1923年 敷香郡多来可村・遠岸村を合併
- 1929年 樺太町村制施行および拓務省告示により、二級町村に指定
- 1936年 樺太鉄道(株)知取駅~敷香駅間 (75.0km) が開業。
- 1945年8月 ソ連軍の侵攻により、以降ソ連の占領下に置かれる。
- 1949年6月1日 国家行政組織法の施行により消滅。
[編集] 地域
[編集] 教育
- 国民学校
- 敷香第一国民学校
- 敷香第二国民学校
- 敷香第三国民学校
- 中等学校
- 敷香中学校
- 敷香高等女学校
- 敷香商業学校
[編集] 交通
[編集] 鉄道
[編集] 出身者
[編集] 関連項目
[編集] 参考文献
- N・ヴィシネフスキー『トナカイ王-北方先住民族のサハリン史』小山内道子訳、成文社、2006年
- 全国樺太連盟編『樺太沿革・行政史』、1978年
- 防衛庁防衛研修所戦史室編『北東方面陸軍作戦(2)-千島・樺太・北海道の防衛』朝雲新聞社〈戦史叢書〉、1978年
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