大鵬幸喜
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
大鵬幸喜(たいほう こうき、1940年5月29日 - )は、大相撲力士。第48代横綱。本名は、納谷 幸喜(なや こうき)で、身長は187cmである。樺太敷香町出身で、北海道川上郡弟子屈町で育った。父親はウクライナ人、母親は日本人のハーフ。納谷は母の姓である。幸喜の名は皇紀2600年にちなんでつけられた。また、ヴラディミル(ヴァーニャ)というロシア語名があったという。
目次 |
[編集] 人物
1960年代に活躍し、ライバルといわれた柏戸とともに「柏鵬(はくほう)時代」と呼ばれる大相撲の黄金期を築いた。1960年(昭和35年)1月場所新入幕で初日から11連勝で12勝3敗の好成績を挙げた。幕内で初めて敗れた相手が柏戸である。翌場所は一転の負け越しだったが以降はすべて2桁の勝ち星であり、1961年(昭和36年)11月場所後に柏戸と共に横綱昇進。新入幕の翌年に横綱になった力士はそれまでになく、その後も出ていない。三賞受賞数が少ないのは、早くに大関・横綱に昇進したためである。
同じくハーフ(日本とロシア)である野球の太田幸司同様、大変な美男子だった。当時の子供の好きなものを並べた「巨人・大鵬・卵焼き」という言葉からも、当時の大鵬の人気と知名度がわかる。だが大鵬本人はこの言葉があまり好きではないと後に語っている。理由は、自身がアンチ巨人だったからと、団体競技の野球と個人競技の相撲と一緒にしてくれるなという気持ち、何より「大鵬の相撲には型がない」などと盛んに批判された時期に「大人のファンは柏戸と大洋ホエールズ」などと評論家から返されたこともある。引退後、生まれ変わってもう一度相撲取りになったら、今度は柏戸さんのような相撲とりでいたい、とこぼしたこともあった。
彼の四股名は、師匠二所ノ関が最も有望な弟子につけるべく温存していたものであり、その点では師匠の期待以上によく育ったといえるだろう。新十両が決まり、四股名がもらえることが決まった時には大砲と書くと思ったらしく、師匠に話すとそれは「おおづつ」と読むと言われ、横綱大砲の話をされたという。
その強さと出世の早さゆえか、相撲の天才と呼ばれることも多かったが、本人はこれを嫌い、弟弟子の麒麟児(後の大関・大麒麟)のほうが天才と呼ぶにふさわしいと言っていた。
幕内最高優勝32回(2007年現在、最多優勝記録である)という成績からいっても大横綱であることに疑う余地はないが、双葉山と比べると評価が低い。最大の理由は、相撲の豪快さに欠ける点であろう。ただし相手次第で取り口を変える柔軟性を持っていたという点では今でも非常に評価が高い。
連勝数では双葉山(69連勝、2007年現在、最多連勝記録である)に及ばず、45連勝が最高(2007年現在歴代3位)である。この記録は1968年(昭和43年)9月場所2日目から1969年3月場所初日の間に作られたが、同場所2日目、平幕の戸田(後の羽黒岩智一)に敗れて途切れた。但しビデオ画像や写真では戸田の足が先に土俵を割っていたので、誤審であるとして問題となり、相撲の勝負判定にビデオ画像を参考にするきっかけとなった。
[編集] 取り口、強さ
取り口は非常に手堅く、若い頃は両差しを得意にしていた。自分有利の体勢に持ち込んだら確実に前に出て寄り切ると言うのが勝ちパターン。弱点である腰の脆さ(大鵬には反り腰がなく、上体が反ると残すことが出来なかった。常に前かがみを保ちながら相手を捌く取り口は、この弱点があるためである。)を戦術と身体の柔らかさと懐の深さで補っていた。しかし、たまに土俵中央でがっぷり四つになったりすると、格下力士相手でも大相撲になった。大兵であるにも関わらず、巧みな前捌きに代表される緻密な技能を持っていた。また、左差し手を十分に返してから放たれる掬い投げは伝家の宝刀とも言われ、大一番になればなるほど輝きを放った。
このように、基本的には左四つに組みとめての重厚な寄りと強烈な投げが主体のスタイルだが、押し相撲や右四つでも相撲が取れた。つまり、良く言えば究極のオールラウンダーであり、悪く言えば絶対的な型がなかったということである。この点は、右四つの完成された型を持った双葉山定次とは対照的である。そのため、最初の6連覇(1962年7月~1963年5月)の直後あたりから、一部の評論家からは「大鵬の相撲には型がない」と盛んに批判された時期があった。しかし、師匠である二所ノ関は「型の無いのが大鵬の型」「名人に型なし」と言ってこれを黙らせた。そしてさらに大鵬が勝ち続け、昭和の大横綱へと成長すると、「型の無い」大鵬の相撲は、状況に応じて相撲を変える「自然体」と評価されるようになった。
大鵬の素質に惚れ込んだ師匠・二所ノ関によって徹底的指導によって鍛え上げられた。口に水を含みながらの荒稽古など、その指導はスパルタ的なものであった。
その体の柔らかさは真綿やスポンジに例えられるほどのものであった。この体がどんな当たりをも受け止め、崩れない大鵬の相撲を可能にしていた。
色白の大変な美男であるためか、若い頃の人気は物凄く、特に男性から人気の高かった柏戸と比べて、大鵬は女性・子供からの絶大な支持を誇った。大鵬の取組の時だけは銭湯の女湯ががら空きになったという有名なエピソードがある。
全盛期には彼にあやかって「幸喜」と命名された男児がたくさんいた。俳優・劇作家・脚本家の三谷幸喜はそのうちの一人である。
晩年は本態性高血圧や膝、肘など怪我や病気に苦しんだ。相撲でも叩きを多用して一部から批判されたが、なお精進を続け、次代を担うとされた北の富士と玉の海に対して最後まで壁として君臨し続けた(北の富士・玉の海が横綱に昇進して以降の対戦成績は共に大鵬4勝2敗でリード)。
様々な金字塔を打ち立てたが、特に入幕(1960年)から引退(1971年)まで毎年必ず最低1回は優勝した記録は、「一番破られにくい記録」と言われる。
[編集] 引退後
引退後は大鵬部屋を興し、関脇巨砲、前頭嗣子鵬らを育てた。現在は部屋を娘婿の貴闘力に譲っている。2000年(平成12年)に北の湖敏満・千代の富士貢の2横綱を率いて還暦土俵入りを披露した。
2001年(平成13年)にサハリン州(樺太)で父マルキャン・ボリシコの生涯が明らかになり、サハリン州の日本研究家の働きかけでウクライナのハリコフ市に大鵬記念館が建設されることになっている。大鵬自身もハリコフで相撲大会を企画しており、ロシアをはさんで日本とウクライナの国際交流の主役として脚光を浴びている。
また慈善活動にも熱心で、「大鵬慈善ゆかた」などを販売し、その収益を元にして、日本赤十字社に血液運搬車「大鵬号」を毎年寄贈している。相撲協会を退職後、この事業は貴闘力が引き継いでいる。
2005年(平成17年)に日本相撲協会を65歳の停年(定年)退職し、9年近く空席だった相撲博物館館長に就任したが、協会在籍中に理事長や執行部在任経験がなく(1期のみ審判部副部長を勤めたが、脳梗塞をわずらったためにその後は退任し、地方場所部長の職が長かった)、先に定年退職していた理事長経験者の佐田の山と豊山が健在にも拘わらず館長職に就いたのは異例の抜擢と言われている。
最近は朝青龍のよき相談役としても知られ、相手次第で取り口を変える、自身のような万能型の大横綱の道を歩みつつある朝青龍を厳しく、かつ温かく見守っている。
なお、少年時代を過ごした北海道弟子屈町の川湯温泉の温泉街の外れには、1984年に開館した川湯相撲記念館があり、化粧回しや優勝トロフィーなどのゆかりの資料が展示されている他、名勝負・名場面などの栄光の記録と生い立ちから現在に至るまでの歩みとを綴ったドキュメンタリー映像を上映するコーナーもある。また、記念館の前には、彼の銅像も建っている。
[編集] 略歴
- 1956年9月 - 本名である納谷という四股名で初土俵
- 1959年5月 - 新十両。納谷改め大鵬。
- 1960年1月 - 新入幕
- 1960年11月 - 初の幕内最高優勝
- 1961年1月 - 大関昇進
- 1961年11月 - 横綱昇進
- 1969年9月 - 同年夏場所で30回目の優勝を達成したことから、その功績を称え協会より、一代年寄を授与される。現役中の一代年寄授与は大鵬と千代の富士(辞退)のみ。
- 1971年1月 - 32回目の優勝
- 1971年5月 - 現役引退、一代年寄「大鵬」を襲名
- 1972年1月 - 大鵬部屋がこの場所から独立。
- 1977年2月 - 脳梗塞を患う。
- 1984年 - 少年時代を過ごした北海道弟子屈町川湯温泉地区に川湯相撲記念館が開館。
- 2000年6月 - 還暦土俵入り(ただし、四股をふむことができないので立ち姿のみ)を行う。
- 2004年1月 - 同月1日付で、娘婿である大嶽(元関脇貴闘力)が部屋を引き継ぎ、大鵬部屋の歴史に幕を閉じる。部屋の看板は縦書きの「大嶽部屋」と横書きの「大鵬道場」の2枚となる。
- 2005年5月28日 - 日本相撲協会を定年退職
- 2005年5月29日 - 相撲博物館第5代館長に就任
[編集] 成績
- 通算成績:872勝182敗136休
- 幕内成績:746勝144敗136休(勝率では取り直し制度導入以降1位)
- 幕内最高優勝:32回(歴代1位)
- 連勝数:45(1926年の東西相撲合併以降、歴代3位)
- 幕内在位:69場所
- 横綱在位:58場所
- 三賞:敢闘賞2回、技能賞1回
- 金星:1個(朝汐)
[編集] 幕内での場所別成績
場所 | 地位 | 勝数 | 敗数 | 休場 | その他 |
---|---|---|---|---|---|
昭和35年 1月 | 西前頭13枚目 | 12 | 3 | 0 | 新入幕、敢闘賞(初) |
昭和35年 3月 | 東前頭4枚目 | 7 | 8 | 0 | - |
昭和35年 5月 | 東前頭6枚目 | 11 | 4 | 0 | 敢闘賞(2)、金星1 |
昭和35年 7月 | 西小結 | 11 | 4 | 0 | - |
昭和35年 9月 | 西関脇 | 12 | 3 | 0 | 技能賞(初) |
昭和35年 11月 | 東関脇 | 13 | 2 | 0 | 優勝(初) |
昭和36年 1月 | 東張出大関 | 10 | 5 | 0 | - |
昭和36年 3月 | 西張出大関 | 12 | 3 | 0 | - |
昭和36年 5月 | 西大関 | 11 | 4 | 0 | - |
昭和36年 7月 | 東大関 | 13 | 2 | 0 | 優勝(2) |
昭和36年 9月 | 東大関 | 12 | 3 | 0 | 優勝(3) |
昭和36年 11月 | 西横綱 | 13 | 2 | 0 | 優勝(4) |
昭和37年 1月 | 東横綱 | 13 | 2 | 0 | 優勝(5) |
昭和37年 3月 | 東横綱 | 13 | 2 | 0 | 優勝同点 |
昭和37年 5月 | 東横綱 | 11 | 4 | 0 | - |
昭和37年 7月 | 東横綱 | 14 | 1 | 0 | 優勝(6) |
昭和37年 9月 | 東横綱 | 13 | 2 | 0 | 優勝(7) |
昭和37年 11月 | 東横綱 | 13 | 2 | 0 | 優勝(8) |
昭和38年 1月 | 東横綱 | 14 | 1 | 0 | 優勝(9) |
昭和38年 3月 | 東横綱 | 14 | 1 | 0 | 優勝(10) |
昭和38年 5月 | 東横綱 | 15 | 0 | 0 | 優勝(11) |
昭和38年 7月 | 東横綱 | 12 | 3 | 0 | - |
昭和38年 9月 | 東横綱 | 14 | 1 | 0 | - |
昭和38年 11月 | 西横綱 | 12 | 3 | 0 | - |
昭和39年 1月 | 東横綱 | 15 | 0 | 0 | 優勝(12) |
昭和39年 3月 | 東横綱 | 15 | 0 | 0 | 優勝(13) |
昭和39年 5月 | 東横綱 | 10 | 5 | 0 | - |
昭和39年 7月 | 東張出横綱 | 1 | 4 | 10 | - |
昭和39年 9月 | 西横綱 | 14 | 1 | 0 | 優勝(14) |
昭和39年 11月 | 東横綱 | 14 | 1 | 0 | 優勝(15) |
昭和40年 1月 | 東横綱 | 11 | 4 | 0 | - |
昭和40年 3月 | 東横綱 | 14 | 1 | 0 | 優勝(16) |
昭和40年 5月 | 東横綱 | 9 | 6 | 0 | - |
昭和40年 7月 | 西横綱 | 13 | 2 | 0 | 優勝(17) |
昭和40年 9月 | 東横綱 | 11 | 4 | 0 | - |
昭和40年 11月 | 東張出横綱 | 13 | 2 | 0 | 優勝(18) |
昭和41年 1月 | 東横綱 | 0 | 0 | 15 | - |
昭和41年 3月 | 東張出横綱 | 13 | 2 | 0 | 優勝(19) |
昭和41年 5月 | 東横綱 | 14 | 1 | 0 | 優勝(20) |
昭和41年 7月 | 東横綱 | 14 | 1 | 0 | 優勝(21) |
昭和41年 9月 | 東横綱 | 13 | 2 | 0 | 優勝(22) |
昭和41年 11月 | 東横綱 | 15 | 0 | 0 | 優勝(23) |
昭和42年 1月 | 東横綱 | 15 | 0 | 0 | 優勝(24) |
昭和42年 3月 | 東横綱 | 13 | 2 | 0 | - |
昭和42年 5月 | 東横綱 | 14 | 1 | 0 | 優勝(25) |
昭和42年 7月 | 東横綱 | 2 | 1 | 12 | - |
昭和42年 9月 | 東張出横綱 | 15 | 0 | 0 | 優勝(26) |
昭和42年 11月 | 東横綱 | 11 | 2 | 2 | - |
昭和43年 1月 | 西横綱 | 1 | 3 | 11 | - |
昭和43年 3月 | 東張出横綱 | 0 | 0 | 15 | - |
昭和43年 5月 | 西横綱 | 0 | 0 | 15 | - |
昭和43年 7月 | 西横綱 | 0 | 0 | 15 | - |
昭和43年 9月 | 西横綱 | 14 | 1 | 0 | 優勝(27) |
昭和43年 11月 | 東横綱 | 15 | 0 | 0 | 優勝(28) |
昭和44年 1月 | 東横綱 | 15 | 0 | 0 | 優勝(29) |
昭和44年 3月 | 東横綱 | 3 | 2 | 10 | - |
昭和44年 5月 | 西横綱 | 13 | 2 | 0 | 優勝(30) |
昭和44年 7月 | 東横綱 | 11 | 4 | 0 | - |
昭和44年 9月 | 東横綱 | 11 | 4 | 0 | - |
昭和44年 11月 | 東横綱 | 6 | 4 | 5 | - |
昭和45年 1月 | 東横綱 | 0 | 0 | 15 | - |
昭和45年 3月 | 東張出横綱 | 14 | 1 | 0 | 優勝(31) |
昭和45年 5月 | 東横綱 | 12 | 3 | 0 | - |
昭和45年 7月 | 西横綱 | 2 | 2 | 11 | - |
昭和45年 9月 | 東張出横綱 | 12 | 3 | 0 | - |
昭和45年 11月 | 西横綱 | 14 | 1 | 0 | 優勝同点 |
昭和46年 1月 | 西横綱 | 14 | 1 | 0 | 優勝(32) |
昭和46年 3月 | 西横綱 | 12 | 3 | 0 | - |
昭和46年 5月 | 西横綱 | 3 | 3 | 0 | 引退 |
通算 | 746 | 144 | 136 | - |
[編集] 関連書籍
- 大鵬幸喜『巨人、大鵬、卵焼き 私の履歴書』(日本経済新聞社、2001年2月) - ISBN 4-532-16377-3
[編集] 関連項目
- 横綱一覧
- 白系ロシア人
- 昭和の大横綱
- マルキャン・ボリシコ(大鵬の父・ウクライナ人)
|
|
|