斎藤月岑
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斎藤 月岑(さいとう げっしん 文化元年(1804年)-明治11年(1878年)3月6日))は江戸の町名主、考証家。『江戸名所図会』『武江年表』など、江戸の町についての基本資料を著述したことで知られる。
神田の町名主の家に生まれた。名は幸成、九代目斎藤市左衛門。斎藤家は徳川家康の江戸入府(天正18年(1590年))以前からの名主であり、草創名主として幕府からも一目置かれていた家柄である。文化15年(1818年)3月9日、父が47歳で急死すると、15歳で家を継いだ。以後、町名主を続けながら精力的に著作を続けたが、晩年は2度にわたる妻の死や養子との確執とその急死などで家庭的には恵まれなかったともいう。
『江戸名所図会』(7巻20冊)は祖父・長秋(幸雄)の代から書き始められ、父・莞斎(幸孝)、月岑(幸成)と三代にわたって完成した労作である。初め長秋は『東都名所図会』という題名で刊行を志していたものの寛政11年(1799年)10月4日に63歳で病死する。後を継いだ婿養子の莞斎も早世したために、その刊行は月岑に託された。
長谷川雪旦の挿画を付して1834-1836年に刊行された。日本橋から始まり、江戸の各町について由来や名所を記し、近郊の武蔵野、川崎、大宮、船橋などにも筆が及んでいる。江戸の町についての一級資料である。
『武江年表』(12巻)は徳川家康が江戸入府以後の江戸における事件・風俗・社会事情などの広範な記事を年表形式にして纏めたものである。嘉永3年(1850年)に一度完成したものの、後に明治維新の変革を迎えたために、追加の記事が加えられて明治11年(1878年)1月に明治6年(1873年)までの分が完成されたのである。
明治15年(1882年)に刊行された後、複数の研究家によって校訂・増補が繰り返されたが、近年には日本経済新聞の元社員である今井金吾による校訂版がちくま学芸文庫(筑摩書房)から刊行されている。
幸雄・幸孝・幸成三代の墓所は上野の法善寺にある。また、文政13年(1830年)から45年間にわたる日記が現存しているという。
[編集] 関連項目
神田司2丁目に月岑の記念碑(淡路町交差点と神田児童公園の中間) 月岑の孫の著作物あり
[編集] 外部リンク
- 東京都立中央図書館[1]