日本における奴隷制
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
日本における奴隷制(にほんにおけるどれいせい)では、日本の歴史における奴隷制について解説する。
島国である日本では交易が比較的限られていたことなどから、(他国の制度を模倣したのでなく)日本内発的である可能性が高いと言われている。3世紀に中国が日本から奴隷を輸入したことが中国の歴史記録に残っているが、その制度システムの詳細までは明らかにされていない。このころの奴隷は「生口(せいこう)」と呼ばれていた。しかしやがて中国は日本からの奴隷輸入を廃止した。 海を隔てた日本からより、近隣諸国大陸経由からの方が輸送経費が安かった為と考えられる。
8世紀には奴隷は「奴婢(ぬひ)」と呼ばれていたが、たいていは農業や屋敷仕事などに従事していた。現在の茨城県にあたる地域では当時人口19万人のうち2000人程が奴隷であったというが、西日本地域ではこれよりも奴隷人口の割合が高かったといわれる。
戦国時代には「奴隷制は時代錯誤」という価値感が広がった。ある会合の際、織田信長はカトリック司祭によって黒人奴隷と接見(記録上は日本人とアフリカ人の初の出会い。)させられた。しかし後にこの黒人奴隷は信長によって自由身分に解放され、「ヤスケ」という名の侍として信長の側近となる。彼は結婚したが、その後の記録は残されていない。1588年、豊臣秀吉は奴隷交易を全面廃止にし、さらに徳川家康も奴隷制廃止を引き継いだ。