日葉酢媛命
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
日葉酢媛命(ひばすひめのみこと、生年不詳 - 垂仁天皇32年(2年)7月6日とは、記紀に伝えられる垂仁天皇の二人目の皇后。(垂仁天皇15年(紀元前15年)8月1日立后)。『日本書紀』では日葉酢媛命、一書に日葉酢根命。『古事記』では氷羽州比売命、比婆須比売命。
父は丹波道主王(たんばのみちぬしのみこと。開化天皇の孫、彦坐王の子)、母は丹波之河上之摩須郎女(たんばのかわかみのますのいらつめ)。 ちなみに垂仁天皇の最初の皇后である狭穂姫命は丹波道主王の異母妹であり、日葉酢媛命の叔母に当たる。
子は以下の五人。なお、孫に日本武尊がいる。
- 五十瓊敷入彦命(いにしきいりびこのみこと)
- 大足彦忍代別尊(おおたらしひこおしろわけのみこと、景行天皇)
- 大中姫命(おおなかつひめのみこと、古事記には大中津日子命)
- 倭姫命(やまとひめのみこと) 斎宮
- 稚城瓊入彦命(わかきにいりひこのみこと)
[編集] 入内
垂仁天皇5年(紀元前24年)、「狭穂毘古の叛乱」の際の狭穂姫命の遺言により、垂仁天皇の後宮に迎えられる。
垂仁天皇15年2月10日、入内。紀では日葉酢媛命の他に、渟葉田瓊入媛(ぬばたにいりびめ)、真砥野媛(まとのひめ)、薊瓊入媛(あざみにいりびめ)、竹野媛(たかのひめ)をあげる。同年8月1日、日葉酢媛命を立后。さらに妹の三人を妃としたが竹野媛だけは不器量であった為、里に帰す。しかし竹野媛はそれを恥じて葛野で自ら輿から飛び降りて死んだ。それでその地を名付けて堕国(おちくに)という。いまの乙訓はその訛ったものとする。記では日葉酢媛命、弟比売命を妃とし、歌凝比売命、円野比売命を返したとする。また途中、恥じて死のうとした円野比売命が首を吊ろうとした地を相楽と名づけたとする。
[編集] 陵墓
- 狭木之寺間陵(陵山古墳) 所在地:奈良県奈良市山陵町字御陵前三二五
- 前方後円墳で封土は3段の築成。主全長207m、後円部径131m、後円部高さ18m、前方部幅87m、前方部高12.3m。封土全体に葺石がみられる。三段築成で、周りを三区に区切られた水位の異なる周濠が巡り、前方部両側及び後円部背後に渡り土手が設けてある。 巨大な蓋(きぬがさ)形、盾、家形および、鰭付円筒型埴輪や、内行花文鏡、四獣鏡が出土した。
垂仁天皇の弟、倭彦命が亡くなった際に従者を殉死させたが、埋めた人々が数日間泣きわめいて息が絶え、後を犬や烏が食い散らかして、目も当てられない惨状であり、それがあまりに哀れであった。その為、日葉酢媛命が亡くなった際には、野見宿禰がこれまで行われていた王墓へ殉死者を埋めることの代わりに、土で作った人馬を立てることを進言したとある。しかし日葉酢媛命の時期に比べて「円筒埴輪」の起源は古く、「人物埴輪」は新しい。