木村現
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木村 現(きむら あらわ、1931年? - 2007年2月21日)は、広島県広島市出身の元サッカー選手・日本代表選手。
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[編集] 経歴
長沼健は小学校からの幼馴染み、1945年被爆。広島高等師範附属中学(現広島大学附属高校)では、長沼・樽谷明との超強力スリートップの高速右ウイングとして全国中等学校選手権(現・全国高等学校サッカー選手権大会)の戦後初優勝に貢献。三人のスピードは、当時の中学生レベルでは止められなかったと言われ、4試合で計21得点をたたき出した。決勝戦7-1のスコアは、戦後最多得点、及び大会最多得点差記録として現在も残っている。翌年国体も制覇。
この三人を含む広島高師附属中のメンバー8人が卒業後関西学院大学入りし、このメンバーと鴇田正憲らOBを加え全関学として1950年、全日本選手権大会(天皇杯の前身)で慶應義塾大学を6-1で降して優勝、木村は関学卒業後も全関学のメンバーとして1953年、1955年の天皇杯を制覇するなど関学の黄金時代を築いた。
卒業後、薮織物などに所属。1953年全日本に選ばれ翌1954年、日本が初めて参加したワールドカップ予選(第5回W杯スイス大会)の初戦・対 韓国戦にも先発出場。国際Aマッチ出場は4試合だが、国際Cマッチを含めると12試合出場、7ゴールがあり、駿足と強烈なシュートを武器とし「アジアの黒豹」との異名をとった。
「センタリングの神様」と謳われた鴇田を敬愛し、鴇田の2004年の葬儀に「永遠の目標だった鴇田さんの右足の骨をもらって帰りたい」と遺族に申し出た逸話が残っている。
2007年2月21日、神奈川県海老名市内の病院で死去。享年76。
[編集] 所属クラブ
- 関西学院大学
- 薮織物
[編集] 代表歴
[編集] 出場大会
[編集] 試合数
- 国際Aマッチ 4試合 0得点(1954-1955)
- 国際Bマッチ 1試合 0得点(1956)
- 国際Cマッチ 7試合 7得点(1953-1955)
年度 | 国際Aマッチ | 国際Bマッチ | 国際Cマッチ | |||
---|---|---|---|---|---|---|
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | |
1953年 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 1 |
1954年 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 |
1955年 | 2 | 0 | 0 | 0 | 5 | 6 |
1956年 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 |
通算 | 4 | 0 | 1 | 0 | 7 | 7 |
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