サッカー日本代表
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国または地域 | ![]() |
---|---|
協会 | 日本サッカー協会 |
愛称 | オシムジャパン、ブルース(どちらも非公式) |
監督 | イビチャ・オシム |
最多出場選手 | 井原正巳(123試合) |
最多得点選手 | 釜本邦茂(73得点) |
初の国際試合 | 1917年5月9日対中華民国 0-5 |
最大差勝利試合 | 1967年9月27日対フィリピン 15-0 |
最大差敗戦試合 | 1917年9月10日対フィリピン 2-15 |
W杯出場回数 | 3回 |
W杯初出場 | 1998 FIFAワールドカップ |
W杯最高成績 | ベスト16(2002) |
アジアカップ出場数 | 5回 |
サッカー日本代表(さっかーにっぽんだいひょう、さっかーにほんだいひょう)は、日本サッカー協会(JFA)によって編成されるサッカーのナショナルチームである。(右表中のデータはFIFAによる公式なもの)
FIFAワールドカップに3回出場し、最高成績はベスト16(2002年)。アジアカップでは3回の優勝を果たしている。アジアサッカー連盟および東アジアサッカー連盟所属。
目次 |
[編集] 概要と特長
- チームカラー
- 1992年から青を使用。サブカラーとして白、赤などがある。第二次世界大戦の前後にかけては水色が使用されていた。1964年東京オリンピックでは上下白、1968年メキシコシティオリンピックでは白のシャツに紺のパンツとなり、以降は白と紺色が基調とされた。1988年頃の一時期(横山監督時)、赤が採用されたこともあった[1]。
- 愛称
- 公式には制定されていないが、ハンス・オフトが初の日本人以外の代表監督となった際に「オフト・ジャパン」という呼称がマスメディア等で用いられるようになり、以降「監督名+ジャパン」という呼称が広く用いられている。代表監督が交代する毎に愛称も変わることは世界的に見ても極めて稀なケースである。実際、ヨーロッパのスポーツ紙が日本代表を特集した際、「監督によって愛称が変化するのは日本だけ」と報じられたことがある。
- プレイスタイル
- サッカー日本代表のプレイスタイルはブラジルスタイルの模倣を続けてきたと言われることがあるが、現在はヨーロッパ型のサッカーだといわれ、個人技よりも組織力とパスサッカーをより基調とするといわれている。
- 否定できない特徴として、ゴール前での味方への不必要なパス、絶好のシュートチャンスでことごとくシュートを外す「慢性的な決定力不足」が挙げられる。特に近年は、中盤にタレントが集まりすぎ飽和状態になる一方で、釜本邦茂、三浦知良のような絶対的なエースを固定しきれずに、ますます決定力不足が顕著になってきており、アジアの格下相手に失点することは少なくなったものの、その分大量得点もできなくなってきている。また試合終了直前に得点したり、相手がオウンゴールしたりなど、運がいいチームである。
[編集] 歴史
日本が初めて、ワールドカップへの出場に近づいたのは1938年のフランス大会で、この時はオランダ領東インドとの予選に勝てば本大会出場がかなったはずであったが、折からの情勢不安により参加が辞退された。
その後1950年のブラジル大会では、日本蹴球協会(当時)が国際サッカー連盟(FIFA)に復帰していなかったため不参加(日本の再加盟はFIFAの理事会で反対・見送りの意見が賛成を上回ったため、日本はドイツとともに拒否された)。翌1954年のスイス大会で、初めてワールドカップアジア予選にエントリーした。
しかし、日本ではワールドカップがどのようなものか理解されるのにかなり長い時間がかかり、ワールドカップよりもオリンピックに重きが置かれ、ワールドカップはオリンピック前のチーム育成の一環として捉えられる事が多く、ワールドカップではアジア予選での敗退が続いた。
1986年メキシコ・ワールドカップ予選では第一ラウンドを突破し、第二ラウンドの香港戦も快勝、アジア最終ラウンドとなる韓国戦へと駒を進めた。第一戦ホームでは10番木村和司のFKが決まるも1対2で惜敗。ソウルでの第二戦も1対0で負け、またしてもワールドカップ出場を逃した。
日本にとって遠い道程であるワールドカップだったが、FIFA内で20世紀末から21世紀初頭にかけてのワールドカップを日本で行うという議論が1980年代中ごろから起こったことにより国内での状況にも変化が現れた。日本でワールドカップを行うとなれば相応の強化が必要になるため、JFA 、日本サッカーリーグでは様々な変革の試みがなされるようになった。1993年からスタートしたJリーグもその一つである。
2002年に日韓共催の形でワールドカップが日本で開催されることが決定すると、それまで出場したことのないワールドカップ本大会への挑戦が本格化した。1994年アメリカ大会の予選では、あと一歩の所で出場権を逃した(ドーハの悲劇)。
自力でのワールドカップ本大会初出場の最後のチャンスとなった1998年フランス大会予選では、本大会出場国数24から32への増加に伴ってアジア枠も増えたことも手伝い、アジア地区プレーオフでイランを破って初出場を遂げた(ジョホールバルの歓喜)。本大会では、アルゼンチン、クロアチア、ジャマイカと対戦し、初の得点(中山雅史:ジャマイカ戦)は挙げたものの、3戦全敗で勝ち点を得られないままグループリーグで敗退した。
地元開催の2002年大会では、開催国ということで予選免除で本大会出場となった。本大会グループリーグ初戦のベルギー戦で2-2で引き分け初の勝ち点を獲得すると、第2戦でロシア相手に1-0で初勝利を挙げた。続くチュニジア戦も2-0で勝ち、グループリーグを2勝1分の1位で通過、決勝トーナメントに駒を進めてトルコと対戦した。この試合で日本はトルコに0-1で敗退。ベスト16という成績で地元開催のワールドカップを終えた。
[編集] 記憶に残る試合
- ドーハの悲劇 - 1994年 FIFAワールドカップ・アジア地区最終予選 最終戦
- マイアミの奇跡 - 1996年 アトランタオリンピック第1次リーグ 対ブラジル戦
- ジョホールバルの歓喜 - 1998年 FIFAワールドカップ・アジア地区予選 3次ラウンド(グループA/B プレーオフ)
[編集] FIFAワールドカップの成績
以下はFIFAワールドカップにおける日本代表チームの成績である。
- 1930年 - 不参加
- 1934年 - 不参加
- 1938年 - 不参加
- 1950年 - 不参加
- 1954年 - 予選敗退
- 1958年 - 不参加
- 1962年 - 予選敗退
- 1966年 - 不参加
- 1970年 - 予選敗退
- 1974年 - 予選敗退
- 1978年 - 予選敗退
- 1982年 - 予選敗退
- 1986年 - 予選敗退
- 1990年 - 予選敗退
- 1994年 - 予選敗退
- 1998年 - グループリーグ敗退
- 2002年 - ベスト16
- 2006年 - グループリーグ敗退
[編集] 日本代表の全試合結果
1998年フランス大会(グループリーグ敗退)
- グループリーグ・グループH
2002年日本・韓国大会(ベスト16)/予選は自国開催の為に免除
- グループリーグ・グループH
- 決勝トーナメント
2006年ドイツ大会(グループリーグ敗退)
- グループリーグ・グループF
日本 1-3
オーストラリア(2006年6月12日 カイザースラウテルン フリッツ・ヴァルター・スタジアム) 得点/中村俊輔
日本 0-0
クロアチア(2006年6月18日 ニュルンベルク フランケン・スタジアム)
日本 1-4
ブラジル(2006年6月22日 ドルトムント FIFAワールドカップスタジアム・ドルトムント) 得点/玉田圭司
[編集] AFCアジアカップの成績
以下はAFCアジアカップにおける日本代表チームの成績である。
- 1956年 - 不参加
- 1960年 - 不参加
- 1964年 - 不参加
- 1968年 - 予選敗退
- 1972年 - 不参加
- 1976年 - 予選敗退
- 1980年 - 不参加
- 1984年 - 不参加
- 1988年 - 1次ラウンド敗退註1
- 1992年 - 優勝
- 1996年 - ベスト8
- 2000年 - 優勝
- 2004年 - 優勝
註1 1988年大会は日本代表Bとして出場のため日本チームおよび選手の国際Aマッチ記録からは抹消
[編集] 選手
[編集] 記録
各ランキングは2007年3月24日のペルー戦(キリンチャレンジカップ)終了時のもの。(#)は現在の現役選手(代表引退ではなく、現役を引退していない選手)を表す。「期間」は代表で試合に出場した期間であり、末期が抜けている選手は現役の代表選手を表す。
[編集] 出場数
最多試合出場は井原正巳(123試合)。
位 | 名前 | 出場数 | 期間 |
---|---|---|---|
1 | 井原正巳 | 123 | 1988年-1999年 |
2 | 川口能活(#) | 100 | 1997年- |
3 | 三浦知良(#) | 91 | 1990年-2000年 |
4 | 三都主アレサンドロ(#) | 82 | 2002年- |
5 | 都並敏史 | 80 | 1980年-1995年 |
6 | 中田英寿 | 77 | 1997年-2006年 |
7 | 釜本邦茂 | 75 | 1964年-1977年 |
7 | 原博実 | 75 | 1978年-1988年 |
9 | 柱谷哲二 | 72 | 1988年-1995年 |
10 | 宮本恒靖(#) | 71 | 2000年-2006年 |
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[編集] 得点
JFAは、最多得点者を釜本邦茂(73得点)としている。
位 | 名前 | 得点数 | 出場数 | 期間 |
---|---|---|---|---|
1 | 釜本邦茂 | 73 | 75 | 1964年-1977年 |
2 | 三浦知良(#) | 56 | 91 | 1990年-2000年 |
3 | 原博実 | 37 | 75 | 1978年-1988年 |
4 | 高木琢也 | 27 | 45 | 1992年-1997年 |
5 | 木村和司 | 26 | 54 | 1979年-1986年 |
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一方、国際サッカー歴史統計連盟 (IFFHS) は、カズ(三浦知良、56得点)を最多得点者、続いて釜本(55得点)としている。これは以下に示す JFA、IFFHS 両者の統計方法の違いによる。
- JFA - 1988年以前のオリンピック予選および本大会に於ける、プロリーグの存在しない国・地域の、年齢制限のないオリンピック代表チームとの試合は国際Aマッチとする。
- IFFHS - 1954年以降の全てのオリンピック関係の試合を国際Aマッチから除外。
[編集] 歴代監督の一覧
日本サッカー協会の記録では、第二次世界大戦前の代表監督に関する記述が乏しい(他の文献では、ベルリンオリンピックを含むいくつかの国際大会で鈴木重義が監督であった旨の記述が確認できる)。下記では、第二次世界大戦後の歴代監督のみを列挙する。
年 | |
---|---|
二宮洋一 | 1951年 |
竹腰重丸 | 1951年 - 1956年 |
高橋英辰 | 1957年 |
竹腰重丸 | 1958年 - 1959年 |
川本泰三 | 1958年 |
高橋英辰 | 1960年 - 1962年 |
長沼健 | 1962年 - 1969年 |
岡野俊一郎 | 1970年 - 1971年 |
長沼健 | 1972年 - 1976年 |
二宮寛 | 1976年 - 1978年 |
下村幸男 | 1979年 - 1980年 |
渡辺正 | 1980年 |
川淵三郎 | 1980年 - 1981年 |
森孝慈 | 1981年 - 1985年 |
石井義信 | 1986年 - 1987年 |
横山謙三 | 1988年 - 1991年 |
ハンス・オフト(オランダ) | 1992年 - 1993年 |
パウロ・ロベルト・ファルカン(ブラジル) | 1994年 |
加茂周 | 1994年 - 1997年 |
岡田武史 | 1997年 - 1998年 |
フィリップ・トルシエ(フランス) | 1998年 - 2002年 |
ジーコ(ブラジル) | 2002年 - 2006年 |
イビチャ・オシム(ボスニア・ヘルツェゴビナ) | 2006年 - |
[編集] 年代別日本代表
国籍以外の資格制限がない、いわゆるA代表(国際Aマッチの成立要件となる)のほかに、派遣対象となる試合が選手資格に制限を設けている場合などに、資格を満たす範囲で選手を選出しチームを編成する。このときは、日本代表という呼称の前に制限や派遣大会の名称等を関して、A代表との区別をする(ただし、正式にはA代表にも派遣大会名称を冠している)。
- オリンピック日本代表 - バルセロナオリンピック以降、オリンピック(サッカー競技)の予選および本大会では、原則として23歳以下の選手に限るという制約が設けられた。このため予選期間にはU-23日本代表(前年に予選が行われる場合はU-22日本代表)と呼ばれることが多いが、本大会ではオーバーエイジ枠を含むことができるため、オリンピック日本代表という呼称が用いられる。詳細はオリンピックサッカー日本代表選手を参照。年齢に制限は無く、アマチュアのみに出場が許された1968年のメキシコシティ大会でオリンピック日本代表は銅メダルを獲得した。
- ユニバーシアード日本代表 - 大学生のスポーツ大会であるユニバーシアードに派遣される日本代表を指す。選考範囲は原則として大学または大学院在学中、ならびに大会の前年に大学または大学院を卒業した選手に限られる。その他の大会で同じ選考範囲で選手構成がなされる場合は、学生日本代表や大学日本代表、もしくは学生選抜や大学選抜と断りを入れるなどをして呼ばれることが多い。ユニバーシアード日本代表は、1995年の福岡大会で初優勝、その後2001年北京大会、2003年大邱大会および2005年イズミル大会で3大会連続優勝を果たした。
- U-21日本代表 - 出場資格が21歳以下であるツーロン国際トーナメントなどに派遣される日本代表を指す。また、アジア競技大会の出場資格はオリンピックと同じ23歳以下(オーバーエイジ可)であるが、同大会をその2年後のオリンピック日本代表の強化試合と位置付けて、あえて21歳以下の代表を編成する場合もある。
- ユース日本代表 - FIFA U-20ワールドカップ、およびその予選を兼ねたAFCユース選手権に派遣される日本代表を指す。ワールドユースの出場資格が20歳以下であることからU-20日本代表とも呼ばれ、AFCユースはその前年に開催されることからU-19日本代表と呼ばれる。高校を卒業しJリーグクラブに加入したばかりの若手選手を中心に編成されるのが一般的だが、大学生やU-17世代が加わることもある。1999年のワールドユース選手権では、日本代表にとってFIFA主催の世界大会で初の準優勝という快挙を成し遂げた。
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- U-17日本代表 - FIFA U-17ワールドカップに派遣される日本代表。同大会の予選を兼ねたAFC U-17選手権は、実際には出場資格が16歳以下であるため、AFC U-17選手権に派遣される代表はU-16日本代表と呼ばれる。
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[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- 日本代表 - JFA (日本サッカー協会)
- 日本代表歴代記録- 日本代表 - JFA (日本サッカー協会)
- RSSSFによる日本代表の記録
- RSSSFによる日本代表の選手の記録
- J's Goal 日本代表
[編集] 脚注
- ^ 出典:『JFAサッカーQ&A - 日本代表』、日本サッカー協会
- ^ 参考:『日本代表 - JFA』、日本サッカー協会
- ^ 参考:『日本代表:選手紹介』 、J's GOAL
- ^ 参考:『Aマッチ出場ランキング』、日本サッカー協会 ※PDFファイル。閲覧にはAcrobatリーダが必要
- ^ 参考:『Aマッチ得点ランキング』、日本サッカー協会 ※PDFファイル。閲覧にはAcrobatリーダが必要
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