本庄繁長
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本庄 繁長(ほんじょう しげなが、天文8年12月4日(1540年1月12日) - 慶長18年12月20日(1614年1月29日))は上杉氏の重臣。本庄顕長・充長(大宝寺義勝)の父。幼名は千代猪丸。
繁長の父・本庄房長は、叔父にあたる小川長資に居城を奪われている。繁長が生まれる直前の出来事である。房長は弟の離反に衝撃を受けて、遠征先で病に倒れてそのまま没した。このため、本庄氏の家臣は千代猪丸(繁長)を当主にする代わりに長資をその後見人として認めた。繁長は「幼少より気性剛強で勇猛」と言われた。1551年、父の13回忌の会場で後見人として参加した長資を捕えて自害に追い込み、本庄氏の実権を取り戻した。
1558年からは上杉謙信の家臣となり、川中島の戦いや関東攻めなど、謙信に従って各地を転戦し、武功を挙げた。しかし、本庄氏ら越後北部の国人領主らは揚北衆と呼ばれ、守護や守護代としばしば対立し、自立の傾向が強かった。1568年には、武田信玄の調略に応じて繁長は上杉氏からの独立を目論む。勇猛な繁長の反乱鎮圧にさすがの謙信も手間取ったが、翌年、謙信の猛攻を受けた繁長は蘆名盛氏の仲介により降伏し、嫡男の千代丸(後の顕長)を人質として差し出すことで帰参を許された。
1578年、謙信の死により発生した御館の乱では上杉景勝を支持する。その後は新発田重家討伐など上杉家臣として様々な軍功を挙げる。
本庄氏は出羽庄内地方の大宝寺氏と結びつきが強く、庄内進出を目指す最上義光を阻止すべく大宝寺氏を支援し続けた。大宝寺義興は繁長からの支援を強固にすべく、繁長の次男千勝丸(大宝寺義勝)を養子として迎える。しかし、逆に親最上派の国人達の激しい反発を買う。繁長が新発田攻めで動けないことから庄内各地で反乱が起き、それに乗じて最上義光が庄内に軍を進めた。天正15年(1587年)、尾浦城が陥落し、大宝寺義興は自害した。義勝は実父を頼って落ち延びる。翌天正16年(1588年)、伊達政宗の動きから最上義光が動けないのを好機と捉え、繁長、義勝父子は庄内に侵攻する。十五里ヶ原の戦いで反大宝寺国人連合と最上軍に壊滅的打撃を与え、大勝利を収めた。これにより繁長は庄内地方を制圧し、義勝は豊臣秀吉に謁見し、上杉景勝配下の武将として公認された。
天正18年(1590年)、秀吉の命により上杉景勝が由利郡、仙北郡の検地を行ったとき、繁長は同僚の色部長真と諍いを起す。その直後、奥羽で反豊臣の一揆が発生する。一揆は鎮圧されるが、繁長と大宝寺義勝は一揆を扇動したとの嫌疑を受け、大和国に配流された。その後嫌疑が晴れ、上杉景勝に1万石を与えられ帰参する。景勝が会津に転封になるとそれに従い、守山城(郡山市田村町守山)城代に任じられた。
関ケ原の戦いが迫った慶長5年(1600年)、8月下旬、景勝の命により信夫郡福島城に移り、梁川城の須田長義と共に伊達政宗軍の侵攻に備えた。10月6日本庄繁長は、侵攻してきた伊達政宗軍と交戦したが、宮代、瀬上の野戦で敗れた。繁長の次子本庄義勝は松川付近で屋代景頼、片倉景綱、茂庭綱元の大軍に撃破され、福島城へ兵を撤収した。義勝は父繁長と共に福島城に籠城した。伊達軍は福島城を包囲したが、上杉方の抵抗も激しく、攻めあぐねたため、国見山へ陣を返し、翌7日北目城へ撤退した(松川の戦い)。
関ヶ原戦後、景勝は会津120万石から米沢30万石に減封され、繁長も3300石に減俸されながらも福島城代を務め、重臣として直江兼続とともに家中の再建にあたった。
嫡男である顕長が父に先立って死亡したため、家督は次男で大宝寺氏に養子に入っていた義勝が充長と改名して相続した。 法名憲徳院殿傑伝長勝大居士。墓所は福島県福島市の長楽寺。