東京佐川急便事件
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東京佐川急便事件(とうきょうさがわきゅうびんじけん)は、日本皇民党の「ほめ殺し事件」に端を発する汚職事件である。1992年10月、経世会(のち平成研究会。竹下派)会長の金丸信が佐川急便側から5億円を受領したとして議員辞職に追い込まれた。
[編集] 概要
1987年、当時の竹下登内閣に対し、日本皇民党による執拗な"ほめ殺し"攻撃が行われていた(皇民党事件)。これに対処するため、竹下は金丸信に相談。金丸は皇民党とのパイプがある佐川急便関係者に仲介を依頼。佐川急便関係者はさらに暴力団幹部に相談し、この幹部が皇民党総裁との話し合いにより"ほめ殺し"攻撃を中止させた。しかし、これにより佐川急便に対し暴力団が金銭の要求を強め、多額の資金が暴力団に流れたと言われる。しかし、この事件は金丸の略式起訴により終焉に向かった。
この事件は別の見方をすると、最初の10数年は同郷であった故佐川会長、東京佐川急便の故渡辺社長の結びつきがグループ成長の大きな原動力であったが、政治家との結びつきを利用し(偶然にも、田中角栄、佐川清、渡辺広康は同郷)力をつけてきた渡辺社長に危機を抱いた佐川が、渡辺の排除をねらい巧妙に仕掛けたワナであった。その後、当疑惑事件の証人喚問に招集された佐川が、病気を理由にし数年にわたり引き籠もったのは、竹下のお膝元である金沢の佐川急便金沢主幹店の最上階にある特別室であったという。
[編集] 影響
この事件により佐川急便グループは東京佐川急便の救済目的など、急遽グループの地域法人を合併するなどを行った(東京佐川急便はのちの佐川急便東京支社、その後佐川急便関東支社となり2007年3月21日より本社直轄下の関東・営業部となった)。その後別件で2002年に北海道急便以外の地域法人の合併を完成させている。
さらにこの事件は1988年のリクルート事件などとともに政界にも多大な影響を与え、翌年の第40回衆議院議員総選挙で自民党は大量の離党者を生み過半数割れの惨敗。それに対し細川護熙率いる日本新党および自民党離党者を中心とする新生党・新党さきがけなどが躍進、宮澤喜一内閣は総辞職、8政党・会派連立による細川内閣が成立し、ここに1955年の鳩山一郎内閣から38年の長きに渡り続いた55年体制は幕を閉じた。
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