東京音頭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
東京音頭(とうきょうおんど)は、日本の歌。作詞西条八十、作曲中山晋平。
もともとは「丸の内音頭」という曲名で1932年(昭和7年)に制作され、日比谷公園での盆踊り大会で披露された。「丸の内音頭」のレコードはビクターから発売され、A面が藤本二三吉、B面は三島一声で、二三吉はこの曲を最後にコロムビアに移籍した。
1933年(昭和8年)、当時の東京市民すべてが歌えるように改題・改詞され、小唄勝太郎と三島一声の歌唱でレコード化され、爆発的に流行した。勝太郎の一連のヒット曲に多いハァー(ハー小唄)の歌いだしの、勝太郎の力強い、景気のよい歌声は日本中に響き渡った。レコードの売り上げは当時、120万枚に達したという。勝太郎にとって、「島の娘」「明日はお立ちか」「さくら音頭」「大島おけさ」「勝太郎子守唄」などと並ぶ代表曲となった。後年、勝太郎がテイチクに移籍してからは、かつて勝太郎と犬猿の仲といわれた市丸、喜久丸、鈴木正夫によって再吹き込みされた。日本中が何かに憑かれたように踊り狂ったこの曲は、映画作品などにおいて、日本が昭和恐慌から日中戦争へ突入する暗い時代に重なってイメージされることが多い。
盆踊りの定番曲として今でも親しまれているほか、現在では下記のようにプロ野球・東京ヤクルトスワローズの応援歌として使われていることでも知られている。ちなみに現在の東京音頭は、戦後の時勢にそぐわない歌詞が削られている。
尚、前奏は当時新橋喜代三の歌唱で流行していた鹿児島おはら節の前弾きを引用している。おりからの新民謡ブームで、当時は各地で次から次に新民謡が作られていた。東京音頭以前は、須坂小唄、飯坂小唄、三朝小唄、望月小唄など「~小唄」という題の唄がまことに多かったのに対して、東京音頭以降は別府音頭、高田スキー音頭など「~音頭」が増加した。この「音頭もの流行り」は新民謡の域にとどまらず、流行歌の分野においても、「さくら音頭」の各社競作へとつながっていったのである。
一方、原曲の「丸の内音頭」は丸の内には定着しなかった。1975年と1976年に、丸の内の祭である「グランマルシェ」の催しの一つに丸の内音頭が取り入れられたものの、それ以後は行われていない。
[編集] 東京ヤクルトの応援歌
得点が入った時および神宮球場で7回裏の攻撃前に、拡げたビニール傘(青や緑が多い、無色はあまりない)を振って歌われる。これは1978年の優勝の前後に、当時のスワローズ私設応援団長であった岡田正泰氏の発案によって始まったものである。ちなみに、戦前の歌詞には燕が歌いこんであった。 なお、前奏に「くたばれ××(相手球団名)」を歌い、中には巨人戦以外でも「くたばれ読売」と歌うファンもいるため、ヤクルトファンを含め賛否両論の異見が存在する。
なお、それ以前は東京オリオンズ~ロッテオリオンズ(現千葉ロッテマリーンズ、東京スタジアム時代)の応援に使われていた。
[編集] 東京音頭・平成版≪大江戸東京音頭≫
昭和の名曲≪東京音頭≫を平成の時代の若者たちにも踊って欲しいと、2004年、NPO不動産女性会議まちづくりチームの企画で創ったもの。編曲はロックミュージシャンで音楽プロデューサーの南木直樹、唄と津軽三味線は吉田昌紀子(津軽三味線の吉田兄弟の兄:良一郎の妻)、振付は花柳芳次郎である。翌年、社団法人東京都民踊連盟教授会が盆踊りバージョンを振り付け、大江戸東京音頭については、正調と盆踊りバージョンの二種類の振付で踊られるようになった。 この年8月、浅草国際通りで開催されたつくばエクスプレス開通祝賀イベント≪大江戸ビートフェスティバル≫、10月、青山まつりパレード(青山通り)に大江戸東京音頭が採用され、また、小学校の運動会でも採用が始まった。
尚、ニューバージョンの曲名を、東京音頭・平成版≪大江戸東京音頭≫とすることについては、作詞の著作権相続人西條八十氏の了解を得ている。
東京音頭・平成版≪大江戸東京音頭≫については、http://www.ooedotokyoondo.com/
楽曲ダウンロードサイトはhttps://www.mf247.jp/view/index.php?module=msc&msc_id=0034185001
[編集] 関連項目
カテゴリ: 音頭 | 応援歌 | 東京ヤクルトスワローズ