東海林修
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
東海林修(しょうじ おさむ、生年非公開、9月6日生まれ)は、日本の作曲家・編曲家、シンセサイザー奏者。乙女座、O型。
目次 |
[編集] 略歴と作品
[編集] ~1962
- 少年期
幼少より教会音楽に親しむ。中学生の頃、仲間とハワイアン・バンドを結成。手製のハワイアン・ギターで当時の蒲郡ホテル(現・蒲郡プリンスホテル)の演奏バンドにアルバイトとして採用され外国人観光客のため演奏する。口伝えで「可愛いフラの手」を習い、即演奏するなど好評を得た。
- ジャズピアニスト期
学生時代から米軍施設のジャズピアニストとして演奏活動に入る。東京・代々木/渋谷/赤坂/六本木界隈の「Meiji Club(明治クラブ)」「クラブ88」「松涛クラブ」などでクインテットやトリオを主宰、またこの頃、ジャズ・シンガー、ヘレン・メリルの指名で専属ピアニストとしてキャンプを巡った。その後平岡精二クインテットにテスト無しで招かれ、来日したMJQと競演するなど活躍していたところ渡辺プロダクションの渡邊晋社長自らのスカウトにより、ブレインとして同プロダクションに参入することになった。
[編集] 1962~1968の編曲作品
- 洋楽カバーポップス
1962年、中尾ミエの「可愛いベビー」(可愛いベイビー)の編曲を手がける。その後、中尾ミエ、伊東ゆかり、園まりのナベプロ三人娘をはじめザ・ピーナッツ、梓みちよ、田辺靖雄、鹿内タカシ、内田裕也、ほりまさゆき、紀本ヨシオなどによる洋楽カバーポップス作品を多数編曲した。
- 「ウナ・セラ・ディ東京」
1963年にリリースされたザ・ピーナッツ「東京たそがれ」(岩谷時子作詞/宮川泰作・編曲)はヒットの気配がなく、再編曲を依頼される。1964年、この曲は東海林修の格調高いアレンジに変り、タイトルもウナ・セラ・ディ東京として再発売されたリメイク版は大ヒットし、ザ・ピーナッツの代表曲となり、紅白では3度歌われた。
- テレビ番組
渡辺プロダクション制作の番組NTV「ホイホイ・ミュージック・スクール」シャボン玉ホリデー「あなた出番です」やジャニーズ主演のNHK「若さとリズム」などの音楽を担当。 「若さとリズム」の「The Flying Ball」は海外のコンクール「モントルー・ゴールデン・ローズ」に出品された(1966)。主な作品「名犬ロンドン」の主題歌(田辺康雄)、「ビバ・ラ・ビータ・トッポジージョ」(山崎唯) 1964年、日本中が東京オリンピックに沸き立つ中、ザ・ピーナッツがドイツ・ババリア・フィルム制作の番組<スマイル・イン・ザ・ウエスト>にメイン・キャストとして出演する際に音楽スタッフとして同行。この番組はニューイヤーズ・イヴにユーロ・ヴィジョンを通じてヨーロッパ各国に放送されたが、僅か75分の番組に1ヶ月の制作期間を費やす熱の入れようであった。その折に欧州音楽界の重鎮であるハインツ・キースリングに出会い、オーケストレーション、ブラスアレンジほか多大な影響を受けた。
[編集] 1968~1970の編曲作品
[編集] 概要
渡辺プロダクション所属歌手等のため、多数の楽曲・ステージの編曲を担当。和装のヴァイオリニスト、高珠恵が事実上プロデュース、エヴァー・グリーンの名曲を石丸寛の指揮により100人の弦奏者で演奏する「ストリング・スペクタクラー」(1969)には編曲者として大抜擢の指名を受け斬新にして美しいアレンジを施し、高い評価を得るなどジャンルを問わず活躍した。
[編集] 作品
- グループサウンズ~村井邦彦作品
ザ・タイガース、ザ・ワイルド・ワンズ、アダムスなどのグループ・サウンズ作品を多数編曲。また、トワ・エ・モワデビュー・アルバム『或る日突然』(1969)などの作品への編曲により、村井邦彦の絶大な敬意と信頼を得る。1969年、当時まだザ・タイガースのメンバーだった沢田研二のファーストアルバム『Julie』の制作に参加。全曲安井かずみ作詞、村井邦彦作曲、東海林修編曲による書き下ろしのこのアルバムはLPレコードといえばシングルレコード曲集などの形が主流の当時としては珍しいものであった。
- みんなのうた「バケツの穴」
1968年 NHKみんなのうたでアメリカ民謡「バケツの穴」を編曲を担当。本格的なジャズスコアが当時の精鋭メンバー(飯吉馨、石川晶、江藤勲など)により演奏され熊倉一雄と少女たちのユーモラスで個性的な歌唱を引き立てる。アニメーションは和田誠。
- 笑点のテーマ
日本テレビ笑点のテーマ曲の新アレンジを担当したのもこの頃。「パフ」は、東海林修指揮のもと録音中の、効果音係のハプニングであったがそのまま採用され、「笑点のテーマ」のシンボルとなった。
[編集] 1964~1970の作曲作品
[編集] 概要
この時期に渡辺プロダクション所属歌手のため作曲活動を開始。伊東ゆかり「愛するあした」、伊東ゆかりとグリーン・ジンジャー「Green Ginger Flying」、岡田恭子「どんなふうに」、坂本九「雨上り」、トワ・エ・モワ「特別な望みなどないけれど」などの作品は『ソフト・ロック・ドライヴィン』シリーズ(1996~)に多数収録され時代を越えて高く評価され昭和歌謡ブームの火付役のひとつとなった。のちに作曲家・村井邦彦により「クリーンで緻密」と評された東海林修の音楽はアイドルからベテランまで多くのアーティストを育み、日本のポップス草創期を先導した。なお、オーケストラ作品集『Love Story』(1970)のライナーで村井邦彦は、「東海林修の音楽には和臭がない」との讃辞を寄せている。
[編集] 作品
- 青春歌謡
1969年には、伊東ゆかり主演の日活青春歌謡映画『愛するあした』のタイトル曲を作曲。恵とも子(「なぜか教えて」)、久美かおり(「くちづけが怖い」)など、女性アイドルのデビュー曲を作・編曲。久美かおり「くちづけが怖い」で1968年に第10回日本レコード大賞新人賞受賞。
- エキスポ・メイツ・ショー
1970年大阪万国博覧会水上ステージ「エキスポ・メイツ・ショー」(スクール・メイツ)音楽を担当。ヒット曲や童謡メドレーの編曲、書き下ろし「愛・花・太陽」を作曲。演奏は宮間利之とニュー・ハード
[編集] 1970~1973の作品
[編集] 概要
1970年、睡眠時間15分の伝説的多忙の生活から心機一転を計り、渡邊晋社長の理解を得てロサンゼルスUCLAに留学。当時プロデューサー業を始めていた村井邦彦の要請で、留学中にトワ・エ・モワ「時は変るとも」を作・編曲。のちに「地球は回るよ」に改題され発売(1971)、ピチカート・ファイブや英国ザ・ブロッサムズがカバーした。 また、松竹芸能社長の勝忠男と上月晃がリサイタルの音楽監督を依頼のため渡米。カウント・ベイシーやスタン・ゲッツ、レイ・コニフのバンドに在籍した経験を持つ実力派ミュージシャン」(アスペクト社/電子音楽イン・ジャパン)を引き連れ一時帰国して東京・大阪でのリサイタルを成功させるなどの実績もあり、日本から仕事依頼が後を断たず、沢田研二の独立後のソロ・アルバム『ジュリーII』のロンドンでの録音に立ち寄り後1972年に帰国。
[編集] 作品
帰国直後、NHKステージ101の音楽監督に就任。(1972年4月~1973年9月放送)。週五日を同番組のため費やすなど再び多忙な生活の中、長髪はご法度という不文律によりそれまでNHK出演が叶わなかった沢田研二を監督就任後第一回目の放送から一ヵ月間出演させる。上層部にはぎりぎりまで伏せるという作戦が功を奏し、既成事実となったことがきっかけでこの年に沢田研二は紅白歌合戦初出場を果たした。(「許されない愛」安井かずみ作詞/加瀬邦彦作曲/東海林修編曲) 「ステージ101」のオリジナルソング(ヤング101のうた)怪獣のバラード(岡田冨美子作詞/東海林修作・編曲)は その後合唱曲として親しまれ現在も主に中学一年生のコンクール定番曲等として熱烈に支持されている。 番組で施された当時最新の洋楽ポップスへの編曲は「十年早いアレンジ」と高く評価された。当時のリズム101のメンバーは田中清(清司)、松木恒秀、矢島賢、式部秀明、栗林稔ら。また、東海林修プロデュースのアルバム『ぼくら青春の日々』(1973)では林立夫、鈴木茂、細野晴臣=キャラメル・ママがバックで共演している。
- エレクトーンコンクール全日本大会審査員
財団法人ヤマハ音楽振興会主催の1972年10月22日に行われた第9回エレクトーンコンクール全日本大会で審査員を務める。この大会にはエレクトーンプレイヤーとして有名な、松田昌・柏木玲子・三原善隆等が出場、松田昌・柏木玲子が入賞する。続いて10月30日に行われたインターナショナルエレクトーングランプリコンクールでも引き続き審査員を務める。松田昌が入賞。
[編集] 1972~1980 の作編曲作品
[編集] 概要
沢田研二「危険なふたり」の日本歌謡大賞受賞(1973)を機にJ-POPのルーツとなる日本のポップス作品を多数手がける。沢田研二「追憶」(編曲/1974)は1974年度日本レコード大賞歌唱賞受賞。
[編集] 作品
- 沢田研二「危険なふたり」
沢田研二「危険なふたり」(1973)が大ヒット、沢田研二ソロデビュー以来初のオリコンチャート第1位(3週)となり65.1万枚の売上げを記録した。ギターイントロで始まる、東海林修によるポップなサウンドは楽曲の至るところにみずみずしい躍動感を与え、サビの終わりで沢田が大きく手足を振り上げる箇所のいわゆる「決め」の部分は【ジュリー】の代名詞のようになり、後に石野真子『ジュリーがライバル』の曲中で、そのまま使われた。
- 野口五郎への作品提供
1974~1980年、野口五郎のリサイタル、コンサート、ディナーショーでは全国ツアーや広島平和音楽祭等も含め音楽監督、指揮者のみならずピアニストしても多数のステージで功績を残した。1974年11月の野口五郎中野サン・プラザでのコンサートのために「愛の肖像」(山上路夫作詞/東海林修作・編曲)を書き下ろす。ストーリー性のある全編20分を越す大作、アイドル野口五郎の泣きながらの熱唱はテレビでも放映され高い評価を得た。1976年リリースのLAのララビー・サウンド・スタジオで録音された「北回帰線」はプロデュース、全曲作・編曲を手がけたコンセプトアルバム。プロデュサーとしてジム・ゴードン(ドラムス)ラリー・カルトン(ギター)ら総勢36名のトップクラスのスタジオミュージシャンの起用に成功した。「北回帰線」は1976年のアルバム週間ランキングで2位まで上昇(オリコンデータ)。収録作品の「少女よ」(麻生香太郎作詞/東海林修作・編曲)は倍賞千恵子がカバーし(1990)、アニメ「5等になりたい。」(1995)のテーマ・ソングにもなった。野口五郎のアルバム、ステージのために書き下ろした作曲、編曲作品はのべ300曲にも上るとみられている。シングル作品は「美しき愛のかけら/旧い喫茶店」(編曲/1975)、「コーラスライン」(作・編曲/1980)「Charge & Get In」(編曲/同)の四作品のみであるが、1975年「ひとりぼっちの栄光(NHKホール実況録音盤)」、1976年「北回帰線」がアルバム週間ランキングで2位まで上昇する(オリコンデータ)など絶頂期の追い風となった。
- この時期のその他の主要作品
編曲作品
ガロ「地球はメリーゴーランド」(1972) アグネス・チャン「ポケットいっぱいの秘密」(1974) フォー・リーブス「急げ!若者」(1974) 西郷輝彦「天使なんかいない」(1974) 布施明「愛の詩を今あなたに」(1974) 和田アキ子「見えない世界」(1974) ヒデとロザンナ「追想」(1977)
- この時期のその他の主要作曲作品
菅原洋一「愛の嵐」(1974) 朱里エイコ「AH SO」(1975) ヒデとロザンナ「さらば愛の季節」(1977) かまやつひろし「ありの大統領」(1977)まんが偉人ものがたり主題歌)
- コンサートやリサイタルの編曲,音楽監督,指揮者,ピアニストなどとしてステージで関わった主なアーティスト
伊東ゆかり 上月晃 沢田研二 菅原洋一(1977年/昭和52年度第32回芸術祭大衆芸能部門優秀賞受賞) 野口五郎(1978年/昭和53年度第32回芸術祭大衆芸能部門優秀賞受賞)
[編集] 吹奏楽作品
- ディスコ・キッド
1976年、全日本吹奏楽コンクールの1977年度課題曲「ディスコ・キッド」を作曲。 ディスコ・キッドは、それまでの「コンクール課題曲」のイメージを打ち破る曲想でたちまち演奏者の心を捉え、今や吹奏楽の超人気曲として、世代を超えたファンに熱く支持されている。近年では、シエナ・ウィンド・オーケストラ、大江戸ウィンド・オーケストラなど、この曲に課題曲として出会い、現在はプロとして活躍している演奏家などを中心にCDも多数発売され、人気に拍車がかかった。2006年12月10日でスコアが完成以来30年となる。
[編集] シンセサイザー
- 日本初シンセサイザー作品~1970年代
東海林修のシンセサイザー初仕事は、1970年川村純子「思い出は朝陽のように」の編曲。(作曲/ガーション・キングスレー) 村井邦彦プロデュースで、キングスレー作曲「ポップコーン」のB面に収録された。モーグ・シンセサイザーを使用。 これは日本初の国産シンセサイザー作品レコードである。 1973年 沢田研二の中野サンプラザ・リサイタル野口五郎のステージやアルバムにモーグを随所に使用。 1975年 沢田研二アルバム『いくつかの場面』で本格的にモーグ(当時ムーグ)シンセサイザーを演奏。
- 目黒スタジオ
1977年、シンセサイザー・スタジオを東京・目黒に設立。 TBSドラマいごこち満点(1976)バラエティ「みごろ食べごろ笑いごろ」のデンセンマンの電線音頭(1977)アニメまんが偉人ものがたり(1977)など、テレビドラマテーマソングの編曲や背景音楽にもいち早くシンセサイザーを導入した。
- シンセサイザーアルバム
1978年「STAR WARS」で初の本格的シンセサイザー・アルバム制作。B面のSPACE ODYSSEY (スペース・オデッセイ)が、初のオリジナルシンセサイザー作品。1978年東海林書き下ろしのオリジナル・ストーリーに基づく「Welcome to the Space World」 1978年「闍多迦」、1979年「夜間飛行」、1980年「SHAMBALA」などでシンセサイザーファンの支持を得る。
- さよなら銀河鉄道999とデジタル・トリップ・シリーズ
1981年劇場用アニメ、さよなら銀河鉄道999の音楽を担当。同年「交響詩さよなら銀河鉄道999」発売。劇場用予告編のシンセサイザーのBGMから注目を集め、劇中曲唯一のシンセサイザー作品「光と影のオブジェ」により、ファン層が拡大する。1981年「さよなら銀河鉄道999」の管弦楽曲を自らシンセサイザーでカバー。デジタル・トリップ第1号となった。その後、ガンダム、マクロス等デジタル・トリップシリーズはコロムビア・レコードのドル箱となった。
[編集] その他の主要作品
1982年 劇場用アニメ「コブラ」 1982年テレビアニメ「Theかぼちゃワイン」1986年 「キマイラ吼」1987年 「妖獣都市」(第5回日本アニメ大賞オリジナルビデオソフト最優秀作品賞)1993年 OVA「ブラック・ジャック」欧米諸国でも人気が高い。
[編集] 現在
1986年にIZU STUDIO に拠点を移し、現在もシンセサイザー作品中心に鋭意創作活動中。最新作は2006年10月22日発表、全曲書き下ろしの「Thanksgiving」。豊富な「音楽的語彙」を駆使した作・編曲のセンスとこだわりの音色でファンの好評を得ている。2005年2月、BSフジ「HIT SONG MAKERS ~栄光のJ-POP伝説~」村井邦彦編に出演。DVD化。
[編集] 参考文献
電子音楽インジャパン