松平綱隆
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松平 綱隆(まつだいら つなたか、1631年3月25日(寛永8年2月23日) - 1675年5月25日(延宝3年閏4月1日))は出雲松江藩の第2代藩主。父は初代藩主・松平直政(綱隆は長男)。母は松平忠良の娘・久姫(慶泰院)。正室は松平忠昌の娘・亀姫(天称院)。側室は平賀氏(養法院)。子に綱近、吉透、津与(有馬頼元室)、豊姫(松平近時室)。官位は従四位下、信濃守、出羽守、侍従。
寛永8年(1631年)2月23日生まれ。幼名は久松丸。寛文6年(1666年)2月、父が死去したために同年4月10日に家督を継いで当主となった。そのとき、弟の松平近栄に3万石(広瀬藩)、同じく弟の松平隆政に1万石(母里藩)を分与している。
しかし父・直政の治世末期からすでに始まっていた社会不安や士風の弛緩、さらには財政悪化の兆しなどから藩内で混乱が始まる。その始まりが重臣・香西隆清の追放事件、次いで大水害による大被害である。これらにより藩内では混乱と財政悪化が隠し切れないものとなり、綱隆は藩札を発行することでこれを切り抜けようとしたが、逆に財政が悪化した。しかも延宝元年(1673年)には綱隆が小野隆俊の美貌の妻に横恋慕するあまり、彼に無実の罪を着せて流罪とするという事件も起こった。後に隆俊は死んだため、松平氏はその怨霊を恐れて推恵社に彼を祀ったが、綱隆は延宝3年(1675年)閏4月1日に突如として急死した。享年45。法号は宝山院。後を四男の松平綱近が継いだ。墓所は島根県松江市外中原町の月照寺。
あまりに突然の死であったため、隆俊の亡霊に殺されたと噂されたと言われている。
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