松平直政
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松平 直政(まつだいら なおまさ、1601年9月1日(慶長6年8月5日) - 1666年3月8日(寛文6年2月3日))は、江戸時代前期の大名。父は結城秀康(直政は秀康の三男)。母は月照院。正室は松平定良の娘・久姫。子に綱隆、近栄、隆政、直丘、駒姫(松平直矩室)、鶴姫(佐竹義処室)。
[編集] 経歴
慶長6年(1601年)8月5日、近江国伊香郡河内で生まれたため、河内丸と名付けられた(のち国丸)。慶長10年(1605年)、家臣の朝日重政に預けられて養育された。慶長12年(1607年)、父・秀康が病死すると異母兄・松平忠直の庇護を受ける。慶長16年(1611年)4月17日、京都二条城で祖父・徳川家康と謁見し、兄・忠直から「直」をもらって出羽介直政と名乗るようになった。
慶長19年(1614年)、大坂冬の陣に出陣するが、生母の身分が低いことから部屋住みの身分にあった直政には軍資金が無かった。このとき、忠臣の神谷兵庫なる人物が、西本願寺から2,000両もの大金を借りてきてくれたおかげで、出陣したと言われている。冬の陣では豊臣氏随一の名将・真田信繁(幸村)が守る真田丸にて戦った。翌年の大坂夏の陣にも出陣し、兄・忠直に従って活躍した。このとき、忠直軍が敵将・真田幸村をはじめとする多くの敵将兵の首を獲り、大いなる戦功を挙げている。このときの逸話として、直政の家臣・武藤太兵衛が直政の性器を握り、「人は怖気づいた時は縮むものですが、殿のは縮んでおりません」と述べたといわれている。
大坂の陣後、その戦功を祖父・家康から褒め称えられ、家康の打飼袋(食べ物やお金を入れる袋)を与えられた。兄・忠直も直政の活躍を賞賛し、自身の領内に1万石の所領を与えている。元和2年(1616年)5月6日には、幕府から上総姉ヶ崎藩1万石の領土と出羽守の官位を与えられ、正式な大名となった。元和9年(1623年)、兄の忠直が乱行や徳川秀忠との不仲から家督の座から隠退させられて豊後国に配流されると、直政は越前大野藩5万石に加増移封された。寛永10年(1633年)には信濃松本藩7万石へ加増移封。寛永15年(1638年)には出雲松江18万6,000石(及び隠岐1万4,000石を代理統治)へ加増移封され、国持大名となった。 こうして、松江藩の藩主となったのである。
その後、直政は領内のキリシタンを厳しく弾圧した。これはかつての領主・堀尾氏や京極忠高らを上回るほど厳しいものであったらしい。寛文3年(1663年)3月25日、幕命を受けて霊元天皇即位の賀使となり、上洛した。しかし直後の11月26日に病となり、寛文6年(1666年)2月3日、江戸藩邸にて病死した。享年66。墓地は島根県松江市外中原町の月照寺。家督は長男の松平綱隆が継いだ。
直政は口達者な人物で、『油口』と影では言われていたほどであったという。ちなみに、直政が家康からもらった打飼袋は月照寺にある。
[編集] 関連項目
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