松平頼雄
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松平 頼雄(まつだいら よりお、寛永7年9月11日(1630年10月16日) - 元禄10年5月14日(1697年7月2日))は、常陸宍戸藩の初代藩主。徳川頼房の七男。母は佐々木氏。徳川光圀の弟。官位は従五位下、大炊頭。
寛永7年(1630年)9月11日、水戸で生まれる。幼名は藤吉郎。天和2年(1682年)、常陸宍戸に1万石を与えられ、支藩の宍戸藩を立藩した。元禄10年(1697年)5月14日、68歳で死去し、後を養嗣子の松平頼道が継いだ。法号:一法院。融山円公。墓所:茨城県常陸太田市の瑞竜山。
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松平 頼雄(まつだいら よりかつ、寛文8年3月22日(1668年5月3日) - 享保3年5月29日(1718年6月27日)は紀州藩支藩の伊予西条藩の世子。父は伊予西条藩主の松平頼純で、母は正室本多忠義の娘(1673年死亡)。
頼雄は兄の死によって元禄12年(1699年)に西條藩の世嗣となった。孝行心が深く、方正で、非難の余地がない人だったことで史料は全て一致する。しかしなぜか父・頼純は彼を疎み、元禄14年(1701年)から重臣の強い反対に関わらず彼を廃嫡しようと願った。宝永3年(1706年)に頼純が、頼雄の「行跡無宜」という漠然とした理由をあげ老中に届けて、彼を義絶して、下の家の一間に押し込んだ。すぐ後、「かねての御願いの通り」に愛妾の子頼致を世嗣にした。宝永6年(1709年)に頼純が頼雄の事で強諌した重臣の渥美甚五郎勝之を手打ちにし、渥美の妻子(頼純の実娘と外孫に当たる)、その他の渥美の親族、関係者を大勢処罰した。正徳元年(1711年)に頼純は死去し、頼致が西條藩主となった。
宝永2年(1705年)に本家の紀州藩主となっていた徳川吉宗が頼雄を紀州藩の江戸別邸に移したが、正徳3年(1713年)に紀州の田辺藩の下秋津(現和歌山県田辺市)の奥に30間四方の屋敷で家を建てて、その年の12月に頼雄をそこに蟄居させた(1714年8月という説は間違いである)。享保元年(1716年)には吉宗が将軍となって、支藩主であった頼致が徳川宗直の名前をもって紀州藩主となった。
頼雄は父についても吉宗についても不満を表さなかったが、享保3年(1718年)に和歌山に入部した弟の宗直が差し入れを送った際、反発し、病気を訴えて、絶食して、ついに死亡した。葬式は田辺の町で三つの藩の目付の前で行われて、遺灰は和歌山で葬られた。
安永5年(1776年)に宗直の子・徳川治貞が和歌山に入部したが、その年から毎年公然と頼雄の墓を訪問した。後、頼雄の嫡子としての地位が回復され、文化3年(1806年)にその「冤魂」を慰めるための和歌山の邦安社が創建された。