松田解子
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松田解子(まつだ ときこ、1905年(明治38年)7月18日-2004年(平成16年)12月26日)は、日本の小説家である。秋田県荒川村出身。 三菱鉱山経営の荒川鉱山に育った彼女は、小学校を卒業すると、鉱山の事務所でタイピストなどをしながら、文学に触れていた。1923年に秋田女子師範(本科第二部、一年制)に入学、卒業後母校に赴任する。鉱山の過酷な労働条件をみるなかで、社会の矛盾を考えるようになり、1926年に職を辞して上京した。
上京後、労働運動に参加し、その中で大沼渉と結婚する。結婚、子育てのなかの体験が、初期の作品のなかに生かされている。1928年、読売新聞の女流新人短編募集に応じた「産む」が入選し、1929年には『女人芸術』に「乳を売る」が掲載される。また、この年、同誌が応募した「全女性進出行進曲」にも入選し、山田耕筰の作曲でレコードにも吹きこまれた。その後プロレタリア文学運動に参加し、小林多喜二や宮本百合子と知り合う。プロレタリア文学運動が弾圧された後は、女性問題や産児制限の問題に関連した作品や、尾去沢鉱山の事故に取材したルポなど、さまざまな作品を書いた。戦争などによる資料の散逸もあり、この時期の活動の全容はまだ明らかになっていない。
戦後、新日本文学会に参加し、その後日本民主主義文学会にいたるまで、民主主義文学運動の代表的な作家として、平和と民主主義のために多面的に活動した。松川事件のときには、被告の手記『真実は壁を透して』の刊行に尽力し、公正な裁判の実現に努力した。また、戦時中に秋田県の花岡鉱山でおきた中国人労働者への虐殺事件の真相をつかむべく長年にわたり力を尽くし、小説『地底の人々』「骨」などで事件を追及した。
1966年から、自分の母親の生涯に材をとった長編『おりん口伝』の連載を始める。この作品で田村俊子賞、多喜二・百合子賞を受賞する。その後、『おりん母子伝』『桃割れのタイピスト』とつづく三部作で、母と自らの生活をとおして、二〇世紀初頭の日本の資本主義の発展の一側面と、その中での社会革新の動きとを描き出した。その後も、東京電力の人権侵害賃金差別(思想差別)撤廃の訴訟に取材する『あなたの中のさくらたち』など、社会の不合理への抗議の意識を晩年までもちつづけた。