柳川熊吉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
柳川熊吉(やながわ くまきち、文政8年(1825年)-大正2年(1913年))は、幕末の侠客。道産子ヤクザの鼻祖とされる。江戸浅草出身。柳川鍋を商売としていたので姓を柳川とした。
浅草料亭の息子に生まれる。新門辰五郎が幅を利かせていた浅草で顔役となり、幕臣などとも交流があったと言われる。安政3年(1856年)、五稜郭築城のため自ら人員を率いて蝦夷地へ渡り築城動員を補佐。その後、箱館で江戸流柳川鍋を商売として生活していたが、箱館戦争が勃発し、敗北して賊軍とされた旧幕府軍の遺体が埋葬を許されずに箱館市中に放置されると言う惨状に堪えられず、実行寺住職・松尾日隆ら寺々や有志と協力して遺体を回収・埋葬して回った。明治政府に咎めを受けたものの、結果的に熊吉は処罰される事はなかった。
後に旧幕府軍の遺体を改葬して箱館山に碧血碑を建立。榎本武揚ら箱館戦争の生き残りの者達と交流を持った。碧血碑の管理を務め、大正2年に死去。享年89。熊吉の功績を讃える記念碑が碧血碑のすぐ傍に建てられている。