桂萬光
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桂 萬光(かつら まんこう)は、上方落語の名跡。現在は空き名跡となっている。マスコミが発達し、東京弁が人口に膾炙した現代では、いささか継ぎにくい名跡ではある(放送コードに引っかかる可能性がある為)。
以下の各代以外にも、7代目桂文治(2代目桂文團治)の門下で、東京の2代目桂小文治の弟分だった噺家がいて、桂米丸の後に萬光を襲名したが、間もなく亡くなったため、現在は米丸も萬光も代数に数えられていない。
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[編集] 初代
初代 桂萬光(?)は、2代目桂文枝の最初の師匠。その他の詳細不明。
[編集] 2代目
2代目 桂萬光(1841年 - 1905年4月21日)は、本名: 上村亀之助。
大阪市中央区安堂寺町生まれ。刀屋の堀江與助の次男。明治維新により生家が廃業となったため、北新地で幇間となり、九八を名乗る。1876年に月亭文都門下となり都治。後に2代目桂文枝門下に移り、2代目萬光を襲名。
『せむし茶屋(卯の日参り)』『死人茶屋』『桜の宮』などが十八番で、名声は高くなかったものの、桂派の重鎮として活躍した。小柄で喘息持ちだったが、得意の演目は何度聞いても爆笑させるほどの実力の持ち主だったという。
1905年4月6日の法善寺金沢亭と新町瓢亭での『一休』が最後の高座となった。享年65。
[編集] 3代目
3代目 桂萬光(1873年 - 1917年11月22日)は、本名: 伊豆徳松。2代目桂小文枝の実兄。
初代桂枝雀門下。初め雀之助、1912年5月に3代目萬光を襲名。同年、寿々女会が結成された時、師・枝雀と行動を共にするが、後、三友派に移る。
持ちネタは豊富で、そつはなかったが、器用貧乏に終わり、贔屓客も付かず、年中貧乏暮らしだったという。十八番は2代目と同じく『せむし茶屋(卯の日参り)』。
享年44。法名: 釋行徳。