桐生織
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桐生織(きりゅうおり)は、群馬県桐生市において特産とされる絹織物である。『西の西陣、東の桐生』と言われ、高級品織物を中心に、昭和初期までは日本の基幹産業として栄えてきた。
2006年4月から施行される改正商標法によって、特定の地域名を冠した「地域ブランド」(地域団体商標)も商標権の取得が可能となることを受け、産地でつくられる織物のブランド化を図る一環として「桐生織」の商標登録取得に向けた準備を進めている。2006年10月27日に特許庁が発表した第一弾の52件からは漏れている。
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[編集] 白滝姫伝説
桐生織の発祥については、白滝姫伝説という伝承が残されている。
今から1200年前の桓武天皇の時代、上野国山田郡(こうづけのくにやまだごおり)から一人の男が京都に宮仕えに出された。かなわぬ恋としりながら、宮中の白滝姫に恋した男は、天皇の前で見事な和歌の腕前を披露して、白滝姫を桐生に連れて帰ることを認めてもらう。桐生に移った白滝姫は、絹織物の技術を桐生の人々につたえ、その技術が今でも桐生の地で受け継がれているのだという。
この白滝姫が桐生に来た時、桐生市川内の山々を見て「ああ、あれは京で見ていた山に似た山だ」と言ったことから、この地域を『仁田山』といい、特産品となった絹織物を『仁田山紬』というようになった。桐生織は、江戸時代前期までは「仁田山紬」と言われていた。
姫が亡くなると、天から降ったという岩のそばにうめ、機織神として祀った。すると岩からカランコロンという機をおる音がきこえていたが、あるときゲタをはいて岩にのぼった者がおり、以降鳴らなくなった。この岩は白滝神社の社の前の神体石であるという。
現在でも、桐生市には白滝神社があり、白滝姫が祀られている。
[編集] 桐生織の歴史
- 714年に上野の国(今の群馬県)が、はじめてあしぎぬを織って朝廷にさしだした。
- 905年の制度に上野国の税はあしぎぬと定めた。
- 1333年、新田義貞の鎌倉攻めにおいて、仁田山紬を旗印に用いた。
- 1384年~1392年には、仁田山絹として他国にも流通し始めた。
- 応仁の乱により、衰退。
- 安土桃山時代には、少しずつ盛り返していく。
- 1600年、徳川家康が小山にいた軍を急に関ヶ原へ返すとき、急使を送って旗絹を求めたが、わずか1日ほどで2千4百10疋を天神の境内に集めて納めた。このことが織物生産地としての桐生の名声を高めた。
- 1661年~1680年になると、機業を仕事とする者が多くなり、京都、大阪、江戸や他の国々との取引も盛んになったので、1738年2月には、はじめて絹市場が開かれた。
- 1738年織工を雇い入れて、流行を先取りする新しい織物を作り、莫大な利益をあげた。市は、言葉に言い表せないほどににぎわいった。
- 時代の変化にしたがって技術も進み続け、年ごとにすばらしい絹が生産されたので、桐生の名は高まっていった。
[編集] 桐生織の現在
現在は、和装離れから桐生織は苦境に立たされている。しかし、先端科学技術を導入した新製品や、映画・ドラマなどを中心とした衣装提供など、様々な方面へ生き残りをかけて進出している。
スティーブン・スピルバーグ監督の、SAYURIにおいて、主演のチャン・ツィイー、コン・リーや桃井かおりが身につけた丸帯は、桐生市で生産されたものである。