植田紳爾
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植田 紳爾(うえだ しんじ、本名山村 紳爾<やまむら・しんじ>、1933年1月1日 - )は、大阪府生まれの劇作家、演出家である。宝塚歌劇団専属。1996年~2004年には同歌劇団理事長をつとめた。現在は同歌劇団特別顧問。
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[編集] 略歴
幼くして父が病死、母とも生き別れ神戸のおじ夫婦に引き取られた。終戦当時は中学1年生。孤独に打ちひしがれていたとき同級生のすすめで観劇した宝塚歌劇に心を癒された。
その後演劇青年として学生時代をすごし、早稲田大学第一文学部演劇科を卒業。 1957年2月に演出助手として宝塚歌劇団に就職(劇団のかつてのスター・葦原邦子の紹介)。同年中に『舞い込んだ神様』で演出家デビューを果たした。初期には舞踊劇などの小作品を多く手がける。
1973年、当時花組男役トップスター甲にしきのサヨナラ公演にと自身初の一本立てミュージカル"宝塚グランドロマン"として、『この恋は雲の涯まで』を書き下ろす。”外部”より尾上松緑 (2代目)が振付、演出(植田と二人共同で担当)した『この恋は~』は反響を呼び、次の星組(鳳蘭と、花組公演から続演となった大原ますみ)が演目を『この恋は~』に急遽変更して続演するヒットとなった。
更に、1974年大作『ベルサイユのばら』(通称“ベルばら”)初演時に、演出家としても著名だった俳優長谷川一夫と共同演出をつとめ、作品のヒットに貢献。“ベルばら”に続くヒットを求めて歌劇団が力を注いだ、1977年の『風と共に去りぬ』でも演出を手がけて成功、大作の演出家としても高い評価を得るに至った。
1994年~96年に阪急東宝グループ関連会社・宝塚クリエイティブアーツ(歌劇団の公演公式ビデオ・CDなどの販売会社)社長をつとめ、1996年には歌劇団理事長に就任(同時に阪急電鉄取締役にも就任)。2004年に退任するまで、歌劇団の5組化(宙組新設)、東京宝塚劇場の新装など変革期の舵取りをつとめた。退任後は劇団特別顧問をつとめながら、劇作家・演出家として活動している。
私生活では上方舞山村流四世宗家山村若の娘で次期後継者であった山村糸と結婚,糸に男きょうだいがなかったことから以降戸籍上は山村姓を名乗り、現・六世宗家山村若ら子宝にも恵まれたが糸は宗家襲名を果たせぬまま1990年病を得て早世(糸は後年五世宗家を追善された)、以降は六世若らの成長を見守りつつ独身を通す。
[編集] 演出家像
現在の宝塚歌劇団専属演出家の中で最古参の重鎮であり、一般的な“タカラヅカ”のイメージ形成に一役買った人物。大作担当者として成功してからは、スケール豊かな歴史劇を得意にし、作品群に漂う彼一流の様式美から、彼の作品は“植田歌舞伎”とも呼ばれる。
しかし植田の評価については、作品によって“脚本がずさん”また“描き方が古めかしく、共感しにくい””導入部が異様なまでに長く、中々本筋に入らない”などの批判も聞かれる。また、理事長時代には歌劇団を赤字体質から脱却させて経営手腕を評価される一方で、彼が中心的に推進したとされる「新専科制度」などに批判があるなど、とかく評価の分かれる一面がある。しかしどう評価するにしても、彼のいわゆる“植田歌舞伎”は歌劇団の歴史の中で事実独特の存在感を放っており、その他の活動も含め、植田が歌劇団史上の重要人物に含められるのは確かと思われる。
2006年には、モーニング娘。などが出演するミュージカル「リボンの騎士 ザ・ミュージカル」では、監修を担当。彼曰く、「学芸級に上手いアイドルユニットを起用して、宝塚みたいなミュージカルをやってみたくなった。今までにないミュージカルが出来る。」と語っていた。このことから、「B'zのツアー『LIVE-GYM』、a-nationと対抗して行ったのでは。」「モー娘。の再ブレイクを作ろうとしたのでは。」などの賛否両論が相次いだほどである。
[編集] 主な作品
[編集] 宝塚歌劇団で上演された作品
- 1971年『我が愛は山の彼方に』
- 1973年『この恋は雲の涯まで』
- 1974年『ベルサイユのばら』
- 1977年『風と共に去りぬ』
- 1981年『彷徨のレクイエム』
- 1982年『夜明けの序曲』
- 1985年『愛あれば命は永遠に』
- 1988年『戦争と平和』
- 1991年『紫禁城の落日』
- 1995年『国境のない地図』