檜山安東氏城館跡
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空堀 | |
通称 |
檜山城、霧山城、堀ノ内城 |
城郭構造 |
山城 |
天守構造 |
なし |
築城主 | |
築城年 | |
主な改修者 | |
主な城主 |
安東氏、佐竹氏(小場氏、多賀谷氏) |
廃城年 | |
遺構 |
曲輪、土塁 |
位置 |
檜山安東氏城館跡(ひやまあんどうしじょうかんあと)は、秋田県能代市の檜山集落の東側丘陵にある秋田県では最大規模の山城である。近くにある大館跡、茶臼館跡、国分寺跡とあわせて、国指定史跡となっている。
[編集] 特徴
檜山城は霧山城あるいは堀ノ内城といわれている。1432年(永享4年)、安藤康季が修築したとの記録もあるが、一般的には1456年(康正2年)、葛西秀清を安東政季と安東忠季が滅ぼしたことにより安東氏がこの城を居城とし、忠季が1495年(明応4年)頃修築を完了したとされている。安東氏はこの地を根拠地に周囲に勢力を広げた。1589年(天正17年)には安東氏の内紛により、この城で大規模な籠城戦が行われている。(湊合戦)
江戸時代になると1602年(慶長7年)、安東氏は常陸宍戸に転封となり、かわりに佐竹氏が秋田に転封となった。佐竹氏は小場義成を檜山城の城代とするが、1610年(慶長15年)には小場義成を大館(現在の大館市)にうつり、かわりに多賀谷氏が城代となり檜山1万石を受けた。多賀谷氏は大規模な城の作り替えを行うものの、幕府の一国一城令により、檜山城は廃城となった。しかし、多賀谷氏はこの地にとどまり、檜山は廃藩置県までこの地方の中心地区となった。また、この地には神社仏閣が多数現存している。
檜山城北西の支城、大館はアイヌや蝦夷の城であるチャシの特徴があると言われている。1971年からの発掘調査では、中世の館跡や古代の集落跡が重複している遺跡であることがわかった。大館跡は元慶の乱の際に政府が築いた「野代営」ではないかと言われていたが、この発掘では明らかにならなかった。
茶臼館は、檜山城の西にある支城と考えられている。台地状の曲輪を区画する堀切や、腰曲輪が現存している。ここには大浦氏(後の津軽氏)に追われた津軽の北畠氏が住んだとも言われている。
国清寺は檜山城跡の北東にあった、1504年ころ安東忠季によって建てられたと言われる安東氏の菩提寺である。安東氏が常陸国宍戸に移されると、次第に廃寺となった。現在では廃寺跡とされる水田の中に1本の銀杏の木が残っている。