多賀谷氏
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多賀谷氏(たがやし)は、武蔵七党野与党を祖とする一族である。
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[編集] 略史
道智頼基の子・光基を祖し、元は武蔵国埼玉郡騎西庄多賀谷郷の地頭職であった。1190年(建久元年)11月7日、源頼朝上洛の際の先陣の髄兵の中に多賀谷小三郎の名があり、『吾妻鏡』にも多賀谷の名が散見される。
氏家の代に常陸国下妻へ移住。結城氏に臣従し、1440年(永享12年)に勃発した結城合戦では、氏家は落城寸前の結城城から結城氏朝の末子・七郎を抱いて脱出して佐竹氏を頼り、後年、結城家の再興に尽くした。
1454年(享徳3年)の享徳の乱では、古河公方足利成氏の命により関東管領上杉憲忠を襲撃。憲忠の首級をあげ、その功により下妻三十三郷を与えられた。
その後、結城氏からの自立を図り、佐竹氏との同盟を強め、反北条氏の立場を鮮明にしてゆく。
重経の代に最盛期を迎え、領地を20万石にまで拡大。1590年(天正18年)の小田原の陣に参戦して豊臣秀吉から領土を安堵されたが、文禄の役では病気と称し参加しなかったため、領地の一部を没収された。
1600年(慶長5年)の関ヶ原の合戦においては、家康の再三の出陣要請にも応じず、会津征伐に向かう徳川家康の小山本陣へ夜襲をかけようとした事が露見し、改易された。重経は流浪の末、死去する。佐竹氏から重経の養子となった宣家は、戦後、佐竹氏に戻り、兄佐竹義宣の秋田転封に従い檜山城主となり、その後、出羽亀田藩の藩主を継いた。一方、重経の実子・三経は結城秀康(松平秀康)の家臣となり、秀康の越前転封に従って越前松平氏の有力家臣となって、越前丸岡・三国で3万2千石を領した。三家の一族は元和2年(1616年)三経の子・泰経の死によって断絶したとされるが、血統は相続し、その子孫は松平氏の上野前橋藩転封に従い、そこで明治維新を迎えた。
また、その支族が鎌倉時代の承久の乱の後に伊予国周敷郡北条郷へ移住。さらに南北朝時代に南朝に追われて、安芸国の蒲刈島および倉橋島に移り住み、それぞれ蒲刈多賀谷氏・倉橋多賀谷氏が成立、戦国期に大内氏に属する水軍として活躍している。
[編集] 歴代当主
[編集] 系譜
一部、系図に混乱があるため、代表的なものを示した。
凡例 太字は当主、太線は実子、細線は養子。
平忠常 ┃ 胤宗 ┃ 元宗 ┃ 野与基永 ┃ 道智頼意 ┃ 頼基(有賀頼基) ┃ 多賀谷光基(多賀谷氏の祖) ┃ 重光(光経) | 家政(金子家忠の子) ┃ 重茂 ┃ 景茂 ┃ 家経 ┃ 政忠 ┃ 家茂 ┃ 政朝 | 光義(結城満広の子) ┣━━┓ 氏家 高経 | ┣━━┓ 家稙 正順 家稙 ┃ 家重 ┣━━┳━━━━━┓ 重政 経門 為広 ┣━━┳━━┓ ┃ 政経 経伯 経長 政広 ┣━━┓ 重経 重康 ┣━━━┯━━━━━━━━━━┳━━┳━━┓ 三経 宣家(佐竹義重の子) 忠経 茂光 経晃 ┃ ┃ 泰経 岩城重隆 ┃ 経政