歓喜力行団
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歓喜力行団(かんきりっこうだん、ドイツ語:Kraft durch Freude(喜びを通じて力を)、略称 KdF )は、ナチス・ドイツにおいて国民に多様な余暇活動を提供した組織である。ドイツ労働戦線(Deutsche Arbeiterfront、DAF)の下部組織として、国家の管理のもと旅行・スポーツ・コンサート・祝祭典などを企画した。その活動は国民的人気を博したが、国民をレジャー活動を通してひとつにまとめ、ナチスの理想を行き渡らせナチスへの忠誠心を高めることが目的だった。
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[編集] 活動
歓喜力行団は娯楽の「喜び」を通じて労働の「力」を回復させるための党組織で、1933年より音楽コンサートや日帰り旅行、リゾート地やクルーズ船での保養など、手ごろな中産階級的レジャー活動を大衆に提供した。バルト海のリューゲン島の砂浜にある巨大保養所プローラや、数多くの大型クルーズ船(特にヴィルヘルム・グストロフ号)はその好例である。
歓喜力行団はただの娯楽組織ではない。歓喜力行団の究極の目的は、余暇活動をあらゆる大衆に格差なく提供し、階級ごとに分断されたドイツ人を階級対立のないひとつの「民族共同体」にまとめる橋渡しをすることであった。また「生の喜び」を肯定する余暇、スポーツ、演奏会、祭典などの機会を国民に提供することで、ナチスの理想とする力強さや美しさといった共同体の理念や存在を大衆に全身で理解させ信じさせようというものだった。
国民的余暇組織のアイデアはイタリアのファシスト党の「ドーポラボーロ」(Dopolavoro、正式名称:全国余暇事業団 Opera nazionale dopolavoro、「仕事の後の余暇」を通じて労働者をファシズムに親しませる組織)から借りたが、歓喜力行団はその活動を職場単位にまで拡張した。歓喜力行団は提供する活動を増やし、大衆の人気を博してドイツ最大級の組織となった。1939年までに7,000人の職員と135,000人のボランティアが歓喜力行団のために働き、スポーツ、生涯学習、旅行、夕べの催しなどを管轄する部局に分かれていた。20人以上の労働者のいる工場にはすべて歓喜力行団の委員がいた。ある推計では、1939年までに2500万人以上が活動に参加したとされている。歓喜力行団は1939年にこれらの国民的活動をたたえられ、国際オリンピック委員会からオリンピック・カップを贈られた。[1]
[編集] 歓喜力行団の車(KdF-Wagen)
歓喜力行団は、大衆のための手頃な価格の自動車、「歓喜力行団の車」(Kdf-Wagen)の開発と生産にも関与した。後の「フォルクスワーゲン」(国民車)である。これはヒトラーが政権に就いた直後に発表した国民車構想に基づくもので、1938年には正式に「歓喜力行団の車」と名づけられた。同年、ニーダーザクセン州に新都市「歓喜力行団の車市」(Stadt des KdF-Wagens、KdF-Stadt。戦後、ヴォルフスブルクに改名された)が開かれ、自動車工場や労働者住宅が建設された。
歓喜力行団は労働者向けに、「歓喜力行団の車」を購入するための特別貯蓄制度を設けた。これは普通の国民でも車を買えるようにした積立制度で、「自家用車に乗りたいなら、一週間に5マルク貯めよう」(Fünf Mark die Woche musst Du sparen, willst Du im eigenen Wagen fahren)のスローガンのもと33万6,000人ほどが支払を行った。しかしながら、第二次世界大戦の開始により実際に納車されることはほとんどなかった。自動車工場も歓喜力行団自体も戦争遂行のために兵器生産へと回された。大戦後、新たに創業したフォルクスワーゲン社は積立をした人々に応えて、歓喜力行団が実行しなかった納車を行っている。
[編集] 安楽死計画
歓喜力行団は、第二次世界大戦初期、婉曲的に「安楽死計画」と名づけられた計画(T4作戦)に関与している。ヒトラーが「より良い民族共同体」を創造するための手段として、病気や障害のある子供は殺された。歓喜力行団の関与は当初秘密であったが、1939年にヒトラーが身体障害を持つ成人の根絶に一層焦点を当てることを決めて以降は秘密でなくなった。