武田信義
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武田 信義(たけだ のぶよし、大治3年8月15日(1128年9月11日) - 文治2年3月9日(1186年3月31日))は、平安時代末期 - 鎌倉時代初期の武将。源清光の次男。甲斐源氏四代目当主であり、武田信玄で名高い甲斐武田氏の初代当主である。正式な名のりは源信義(みなもと の のぶよし)。 子に一条忠頼、逸見有義、石和信光、板垣兼信。
源頼朝の挙兵に応じて信濃・甲斐の平氏勢を討ち、弟の安田義定や子の一条忠頼らを引き連れて富士川の戦いにも参戦した。これらの戦功により、駿河守護となる。しかし後に頼朝に疎まれ、後白河法皇との間に頼朝追討の密約があるとされて失脚した。
軍事面で鎌倉幕府の成立を支えた功労者だが、その軍功と勢力の拡大、さらには河内源氏の流れを汲むことが逆に、河内源氏の子孫の頼朝の地位を脅かすのではないかという猜疑心をかきたて、晩年の不遇につながったといえる。
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[編集] 経歴
- 大治3年(1128年)8月15日、新羅三郎義光の孫である源清光の次男として生まれる。
- 逸見太郎光長と一卵性双生児として生まれた。逸見光長は巳刻に生まれ、武田信義は午刻に生まれる。
- 幼名を龍光丸といった。
- 保延6年(1140年)、13歳で武田八幡神社にて元服し、武田太郎信義と名を改める。これ以来、武田八幡神社は甲斐武田氏の氏神となる。
- 武田の名字は河内源氏の一族の源義光(新羅三郎義光)の子・源義清が常陸国武田郷(現:茨城県ひたちなか市)から甲斐国に配流されて武田氏を名乗ったのに始まる。
- 治承4年(1180年)4月、以仁王の令旨により、甲斐源氏を石和に集結させて挙兵する。このとき信義は53歳であった。
- 養和元年(1181年)、後白河法皇が信義を頼朝追討使に任じたという風聞が流れた。
- 信義は駿河守護を解任されたうえ鎌倉に召喚され、「子々孫々まで弓引くこと有るまじ」という起請文を書かされた。
- 元暦元年(1184年)6月16日、子の一条忠頼が鎌倉に招かれ宴席で暗殺された。
- 文治2年(1186年)3月9日、失意のうちに病没した。享年59。
- 家督は五男の石和五郎信光が継いだ。
- 墓は山梨県韮崎市の願成寺にある。
[編集] その他
- 兵学や弓道の流派として有名な武田流は、信義に始まるという。
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