源義光
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時代 | 平安時代後期 | |||
生誕 | 寛徳2年(1045年) | |||
死没 | 大治2年10月20日(1127年11月25日) | |||
改名 | 義光 | |||
別名 | 新羅三郎 | |||
戒名 | 先甲院峻徳尊了 | |||
墓所 | 滋賀県大津市園城寺町 | |||
官位 | 従五位上、刑部少輔、常陸介 甲斐守 |
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氏族 | 清和源氏頼義流 | |||
父母 | 頼義、平直方娘 | |||
兄弟 | 義家、義綱、義光、快誉 | |||
子 | 義業、実光、義清、盛義、親義、祐義 覚義 |
源 義光(みなもと の よしみつ)は、平安時代後期の武将。河内源氏の二代目棟梁である源頼義の三男。八幡太郎義家や加茂二郎義綱の弟。近江国の新羅明神で元服したことから新羅三郎(しんらさぶろう)と称す。新羅三郎義光の呼び名でも知られる。
目次 |
[編集] 生涯
後三年の役の時に苦戦する兄の源義家を助けるため都での官位を捨てて奥州へ向った。
役の後、常陸国の有力豪族の常陸平氏(吉田一族)から妻を得て、その勢力を自らの勢力としていく。後に遅れて常陸に進出してきた甥の源義国(足利氏や新田氏の祖)と争って合戦に及び勅勘を蒙る。
義家の没後に野心をおこし、河内源氏の棟梁の座を狙った。その手段として、弟の快誉と共謀し、義家の後継者として源氏の棟梁となっていた甥の源義忠、及び次兄の源義綱の両者を滅ぼす算段を練った。まず郎党の藤原季方を義綱の子の源義明の郎党として送り込み、次いで妻方の縁戚の平成幹(鹿島三郎)を義忠の郎党として送り込んだ。
そして1109年の春、義光は藤原季方に義明の刀を奪うように命じ、その刀を成幹に与え、義忠暗殺の密命を下したのである。その結果、義忠は闘死(所謂「源義忠暗殺事件」)。 その現場に残された刀が源義明のものであることから、義忠暗殺の嫌疑は義明とその父である義綱に向けられる。そして、義綱一族は、義光の勢力圏である甲賀山で義忠の養子である源為義によって討たれるのである。だが、実際に若年の為義が指揮をとっていたわけではなく、その背後には義光がいた(所謂「源義綱冤罪事件」)。
また、義綱の郎党の藤原季方、鹿島三郎も義光(及びその指示を受けた園城寺の僧で義光の実弟の快誉)らの手によって殺害され、事件の真相は闇の中へ消え行くはずであったが、その真相が発覚し、義光は勢力の強い常陸国に逃亡せざるを得なくなり、源氏の棟梁への野望は潰えた。
[編集] 人物
義光の甥義忠の暗殺は源氏の凋落を招いた。源氏の凋落は院政の陰謀も原因であるが、源氏内部での暗闘も衰退の原因であり、その内部の暗闘の中心人物は義光であった。
しかし、義光の子孫が、武田氏、佐竹氏、小笠原氏、南部氏と発展していったことを考えると一族の繁栄に対する義光の功績は偉大である。 兄の義家が河内源氏の棟梁として河内源氏全体の利益を図ったのに対して、義光は自身の利益を優先し、結果的に地方に所領を拡大することで、勢力を扶植していったともいえ、対照的である。その結果、河内源氏の嫡流が衰退した時期やその後の復興の過程(源頼朝の鎌倉幕府の成立)でも、義光系の一族の帰趨が大きな影響を与えており、義光の施策は源氏の復興に貢献した。
また古武道の大東流合気柔術では、義光を開祖としている。
[編集] 墓所
また、生誕地と思われる河内源氏の本拠地の河内国石川郡壷井(現在の大阪府羽曳野市壷井)にある河内源氏の氏神の壷井八幡宮と並ぶ壷井権現に、祖父源頼信、父源頼義、兄源義家、兄源義綱と共に祀られている。