永康市
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台湾省嘉義県永康市 | |
地理 | |
位置 | 東経120°--" 北緯23°--" |
面積 | 40.28km² |
人口 | |
戸口(2006年7月) | 68,584戸 |
人口(2006年7月) | 207,678人 |
政治 | |
行政区分 | 県轄市 |
市長 | 李坤煌 |
地方自治機関 | 永康市民代表会 |
下部行政区画 | 39里1,270鄰 |
その他 | |
郵便番号 | 710 |
市外局番 | 05 |
市花 | - |
市鳥 | - |
市木 | - |
別称 | 埔羌頭 |
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永康市(えいこうし、Yongkang、ヨンカン)は、台湾台南県に位置する県轄市
目次 |
[編集] 地理
[編集] 歴史
永康は明末の鄭成功時代に漢人により新港渓(現在の塩水渓)沿いに入植するための拠点として開発された。漢人は新港渓を遡上し、南岸に集落を築き開墾に着手し、郡城(現在の台南市)から北部への交通の要衝として繁栄した。当時の永康は「埔羌頭」と称されたが、これは明末清初にかけて戦国時代の日本で需要の高まった武具へ使用する鹿皮の主要供給地とし、漢人は米や塩などの物資を平埔族と鹿皮と交換し日本に輸出し、鹿肉は干肉と加工され大陸に輸出されていたことに由来する。閩南語では「埔」は平地を意味し、「羌」は小鹿の一種を、「頭」は海辺の岬を意味し、「埔羌頭」とは鹿野多い海沿いの平地という意味である。
鄭成功による台湾統治が開始されると、承天府和安平鎮が設けられ、安平鎮は付近の24里を管轄した。当時の「埔羌頭」の正式な名称は「永康里」とされている。清代の康熙23年になると永康は台南府に帰属することとなった。1895年以降日本の統治が開始されると、永康「埔羌頭庄」が設置され台南州台南弁務署に帰属した。その後は「永康上中里」、「永内区庄」、「永康庄」と改名が続き、光復後に「永康庄」を「永康郷」と改め15村を管轄するようになった。その後は人口の急激な増加ににより、1982年に下部行政区域を29村に改め、1993年には人口が15万人を超え、県轄市に昇格、39里を管轄するようになり現在に至る。
[編集] 経済
[編集] 行政区
[編集] 歴代市長
代 | 氏名 | 退任日 |
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[編集] 教育
区分 | 数 | 名称 |
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大学 | 0 | 南台科技大学 崑山科技大学 |
技学 | 0 | - |
高中 | 3 | 国立台南大学附属中学 台南県立大湾高級中学 台南県立永仁高級中学 |
高職 | 1 | 国立台南高級工業職業学校 |
国中 | 5 | 台南県立永康国民中学 台南県立大橋国民中学 台南県立大湾高級中学附属国民中学部 台南県立永仁高級中学附属国民中学部 |
国小 | 11 | 台南県立永康国民小学 台南県立大湾国民小学 台南県立三村国民小学 台南県立西勢国民小学 台南県立龍潭国民小学 台南県立復興国民小学 台南県立崑山国民小学 台南県立大橋国民小学 台南県立五王国民小学 台南県立勝利国民小学 台南県立永信国民小学 |
[編集] 交通
種別 | 路線名称 | その他 |
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鉄道 | 縦貫線 | 永康駅 大橋駅 |
高速道路 | 中山高速公路 | 永康IC 大湾IC(計画中) |
省道 | 台1線 | |
省道 | 台19線 | |
省道 | 台20線 |