池中康雄
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池中 康雄(いけなか やすお、1914年 - 1992年)は、元マラソン選手、元日本陸上競技連盟オリンピック代表コーチ。大分県中津市出身で1935年にマラソンの世界記録を打ち立てている。
[編集] 幻の五輪代表
東洋大学陸上競技部に所属していた1935年4月、東京・神宮外苑で開催された1936年ベルリンオリンピックマラソン代表候補選考会において日本大学の鈴木房重が3日前に出した世界記録を1分5秒上回る2時間26分44秒で優勝、ベルリンオリンピックマラソン代表候補として選出される。しかし、弟が大病に冒され、池中が大量の献血をしなければならなくなり、ベルリンオリンピックマラソン最終選考会ではまさかの途中棄権。ベルリンオリンピックの次に開催されることになった1940年東京オリンピックでは、危なげない走りで再度マラソン代表の座を射止めたが、第二次世界大戦の影響で東京オリンピックが開催権返上、そして代替開催となるはずだったヘルシンキオリンピックも中止となり、オリンピックには出場できないまま、現役を引退した。このことから「幻の五輪代表」という異名で呼ばれることもある。
なお、東京箱根間往復大学駅伝競走に於いても東洋大学初登場から合計6回出場を果たした。山登りの5区で区間賞を獲得し、同チームの黎明期の名ランナーとして知られている。上記の世界最高記録樹立は区間賞を獲得した3ヵ月後のことである。
[編集] 日本陸上界の重鎮
第二次世界大戦後は、日本陸上競技連盟五輪代表コーチなどを歴任したほか、障害者スポーツの発展にも尽くした。 また、多くの新人を発掘できるマラソン大会の開催を提唱、現在ではマラソン代表への登竜門となっている、別府大分マラソンを創設したことでも知られる。