ベルリンオリンピック
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ベルリンオリンピック | |
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Berlin 1936.jpg |
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開催都市 | ドイツ・ベルリン |
参加国・地域数 | 50 |
参加人数 | 4,066人(男3,738人,女328人) |
競技種目数 | 21競技129種目 |
開会式 | 1936年8月1日 |
閉会式 | 1936年8月16日 |
開会宣言 | アドルフ・ヒトラー |
選手宣誓 | ルドルフ・イスマイヤー |
最終聖火ランナー | フリッツ・シルゲン |
主競技場 | オリンピアシュタディオン |
ベルリンオリンピック(公式名称:Games of the XI Olympiad、独:Olympische Sommerspiele 1936, 英:1936 Summer Olympics)は、1936年にドイツのベルリンで行われた夏季オリンピックである。ベルリンは1916年のオリンピック開催都市として予定されていたが、第一次世界大戦によって中止された経緯がある。
目次 |
[編集] 概要
[編集] ナチスのプロパガンダ
当時隆盛を誇っていたアドルフ・ヒトラー率いるナチス・ドイツの首都・ベルリンで行われたこともあり、ナチスのプロパガンダとして大会全体が使用されたと言われることになるいわくつきの大会である。当時ユダヤ人迫害政策を進めていたナチス・ドイツは、この大会を開催したいがために、大会期間に限りユダヤ人に対する迫害政策を緩めた他、ヒトラー自体も、有色人種差別発言、特に黒人に対する差別発言を抑えるなど、国の政策を一時的に変更してまで大会を成功に導こうとした。
[編集] 初の聖火リレー
この大会において、古代オリンピックの発祥地であるオリンピアで五輪の火を採火し、たいまつで開会式のメインスタジアムまで運ぶ「聖火リレー」が初めて実施。聖火リレーのコースは、ギリシャのオリンピアを出発して、ブルガリア、ユーゴスラビア、ハンガリー、オーストリア、チェコスロバキアを経由し、ドイツ国内へ。第二次世界大戦中にナチス・ドイツの指導者であるアドルフ・ヒトラーは、このリレーコースとは逆のコースで攻め上げた。聖火リレーをもヒトラーはプロパガンダに利用した、という学者もいる。
[編集] 初のテレビ中継
この大会において、当時まだ多くの国では開発段階であったテレビジョンによる中継が試験的に行われた。試験的とは言え、複数のカメラを使い、会場と会場外を結ぶ本格的なものであった。
[編集] 記録映画
女性監督・レニ・リーフェンシュタールによる2部作の記録映画『オリンピア』(第1部:『民族の祭典』、第2部:『美の祭典』)が撮影された。1938年のベニス映画祭で金賞を獲得する等、各方面で絶賛されて、不朽の名作となっている。
[編集] 大戦前最後の大会
なお、1939年9月にナチス・ドイツによるポーランド侵攻により第二次世界大戦が開戦したため、この大会の次、1940年に行われる予定であった東京オリンピックは中止となり、実に24年後の1964年まで開催を待つことになる。
[編集] 大会ハイライト
- カヌー、バスケットボール、ハンドボールが初めて正式種目となった。特にハンドボールはヒトラーの特別要求によって実施。
- 8月1日の開会式では、ヒトラーが開会宣言をしている間に、メインスタジアムの10万人の観衆が、ナチスのポーズのように右手を斜め前方に挙げた。またドイツと政治的に緊張状態であったフランスの選手団が、行進の際右手を斜め横に掲げるオリンピック式の挨拶をし、これをナチス式の敬礼と見た観衆の熱狂的な拍手を浴びた。
- 陸上の一万メートル、五千メートルに出場した村社講平は共に4位とメダルはならなかったものの、小柄な村社が大柄なフィンランド選手達を相手に果敢に先行する姿がドイツの観衆達の熱狂的な共感を呼び、日本においてもベルリンオリンピック最初の国民的英雄となった。
- 女子二百メートル平泳ぎのラジオ放送での河西三省アナウンサーの「前畑頑張れ」という実況は今も語り草となっている。しかし記録映画『オリンピア』(第2部)では「この戦いを『美』とは言えない」とした監督の意向により編集の段階で切り捨てられており、その為日本公開に際しては配給元が急遽ニュース・フィルムから映像を、河西アナウンサーの実況と共に挿入した。
- マラソンでは当時日本の植民地支配下にあった朝鮮半島出身の孫基禎が日本人として参加して金メダル、同じく南昇龍が銅メダルを獲得した。故国朝鮮の東亜日報は、表彰台の孫から胸の日の丸をそぎ落とした写真を掲載し、11ヶ月の発禁処分を受けている。なお孫基禎が日本に対する一種の抵抗としてゼッケンを裏返しにして走ったとする説があるが、これは映画『オリンピア』の中で、レニがフィルムを故意に裏焼きして編集した映像を誤解したもの。
- 陸上棒高跳びでは西田修平と大江季雄が銀・銅メダルを半分ずつに割って『友情のメダル』を作成(後に、西田修平のメダルは早稲田大学に、大江季雄のメダルは秩父宮記念スポーツ博物館に、それぞれ寄贈された)。
- サッカーでは初出場の日本チームが優勝候補のスウェーデンを破る歴史的番狂わせを演じ(ベルリンの奇跡)ベスト8に進出した。
- 前回ロサンゼルス大会の際、ライバル大阪朝日新聞が日本代表応援歌詩を公募して大ヒット曲を生みだしたことに鑑み、大阪毎日新聞は子会社東京日日新聞にも参画させて当大会の応援歌を懸賞公募した。結果、山本塊二の詩が当選。『あげよ日の丸』の曲題を付し、前大会の朝日製応援歌と同じく山田耕筰作曲、中野忠晴の歌唱で日本コロムビアレーベルから発売させた。これに対し朝日は前大会応援歌『走れ大地を』を再発売する奇策で対抗したところこれが大当たりをとり、朝日の大逆転勝利となった。
- 競技報道においても大毎・大朝の争いは熾烈を極め、国際電話取材、飛行機によるフィルム送付、実験的ながら画像電送機(ファクシミリ)が登場した。
[編集] 実施競技
[編集] 主なメダリスト
- 金メダル
- ジェシー・オーエンス(アメリカ、陸上競技男子100m)
- ジェシー・オーエンス(アメリカ、陸上競技男子200m)
- ジョン・ウッドラフ(アメリカ、陸上競技男子800m)
- ジェシー・オーエンス(アメリカ、陸上競技男子走り幅跳び)
- アメリカ(陸上競技男子4×100mリレー)
- 孫基禎(大韓民国・日本代表として出場、陸上競技男子マラソン)
- ヘレン・シュテファン(陸上競技女子100m)
- アメリカ(陸上競技女子4×100mリレー)
- ヘンドリカ・マステンブルーク(オランダ、競泳女子100m自由形)
- ヘンドリカ・マステンブルーク(オランダ、競泳女子400m自由形)
- オランダ(競泳女子4×100mリレー)
- マジョリー・ゲストリング(アメリカ、女子3m飛板飛び込み) - 個人種目最年少金メダリスト
- ドイツ(体操男子団体)
- アルフレット・シュワルツマン(ドイツ、体操男子個人総合)
- コンラッド・フライ(ドイツ、体操男子種目別あん馬)
- アルフレット・シュワルツマン(ドイツ、体操男子種目別跳馬)
- コンラッド・フライ(ドイツ、体操男子種目別平行棒)
- アリ・バン・ブリート(オランダ、自転車男子1000mタイムトライアル)
- トニー・メルケンス(ドイツ、自転車男子スプリント)
- ロベール・シャルパンティエ(フランス、自転車男子個人ロードレース)
- イタリア(サッカー男子)
- フランス(自転車男子タイムトライアル団体)
- フランス(自転車男子団体追い抜き)
- アメリカ(バスケットボール男子)
- 銀メダル
- 銅メダル
[編集] 日本人メダリスト
- 金メダル
- 銅メダル
[編集] 各国のメダル獲得数
※日本の銅メダルには芸術部門の2個を含む。
ベルリンオリンピック 国・地域別メダル獲得数 |
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位 | 国・地域 | ![]() |
![]() |
![]() |
計 | |
1 | ![]() |
33 | 26 | 30 | 89 | |
2 | ![]() |
24 | 20 | 12 | 56 | |
3 | ![]() |
10 | 1 | 5 | 16 | |
4 | ![]() |
8 | 9 | 5 | 22 | |
5 | ![]() |
7 | 6 | 6 | 19 | |
![]() |
7 | 6 | 6 | 19 | ||
7 | ![]() |
6 | 5 | 9 | 20 | |
8 | ![]() |
6 | 4 | 8 | 18 | |
9 | ![]() |
6 | 4 | 7 | 17 | |
10 | ![]() |
4 | 7 | 3 | 14 |
[編集] 関連映画
- 記録映画『オリンピア』(レニ・リーフェンシュタール撮影・監督)
- 第1部『民族の祭典』
- 第2部『美の祭典』
- レニ・リーフェンシュタールはナチスの党大会の記録映画『意志の勝利』を監督したヒトラーお気に入りの監督であり、撮影はヒトラーの全面協力のもとに行われた。レ二は厳密な意味でのドキュメンタリーにこだわらず、膨大な記録フィルムに練習中の映像や撮影しなおしたリメイク映像、音声まで加えた(後述)上で、スポーツの普遍的な美を基準とした独自の編集により斬新な映像を作り上げた。
- 完成した映画の美しさと斬新さは世界中から絶賛を受け、ヴェニス映画祭で金獅子賞を獲得したほか、日本でもキネマ旬報外国映画ベストテンの1位を獲得、戦前の観客動員記録を樹立するなど大ヒットを記録した。しかし大戦後にナチスのプロパガンダとも取れる場面が非難を浴び、レ二は映画監督としての生命を絶たれる結果になった。そうした政治的非難は受けたものの映画史的な評価は今日でもゆるぎなく、戦後のオリンピック映画制作者のいくどない挑戦にも関わらず、レニを超える作品は生まれていないとされる。
- なおこの映画には本番実写とは限らない再現フィルムも一部含まれている。競技が夜まで及んでフィルムに残せなかった棒高跳びや十種競技、ハイライト向けの演出を施されたマラソンなどがそれにあたる。またマイクの品質の問題で、外人やヒトラーの肉声以外のほとんどをアフレコ撮りされた音声で賄っているとされる。こうした現在では許されないであろう創作行為についても批判の対象となっているが、だからこそ完璧な芸術が生めたのだと賞賛する映画評論家もいる。ちなみにオリンピック映画でレ二に次ぐ評判を得たのが、『オリンピア』に強く感銘を受けたという市川崑の『東京オリンピック』であるが、これも創作的な演出を施した映像により「記録か芸術か」という議論を巻き起こしている。
[編集] レコード
- 『第十一回国際オリムピック大会・ニュースレコード水上競技実況放送』
- 河西三省アナウンサーによる実況レコード。11万枚という、記録レコードとしては異例の大ヒットとなった。
[編集] 参考文献
- リチャード・マンデル(著)、田島直人(訳)、『ナチ・オリンピック』、ベースボール・マガジン社、1976年
- ダフ・ハート・ディヴィス(著)、岸本完司(訳)、『ヒトラーへの聖火:ベルリン・オリンピック』、東京書籍、1988年、ISBN 4487761026
- 沢木耕太郎(著)、『オリンピア:ナチスの森で』、集英社、1998年、ISBN 4087830950
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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冬季オリンピック:1924, 1928, 1932, 1936, (1940)², (1944)², 1948, 1952, 1956, 1960, 1964, 1968, 1972, 1976, 1980, 1984, 1988, 1992, 1994, 1998, 2002, 2006, 2010, 2014, 2018 | |||||
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