浅利慶太
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浅利 慶太(あさり けいた、1933年3月16日-)は、東京都出身の演出家、劇団四季創設者で芸術総監督。慶應義塾高等学校卒業、慶應義塾大学文学部仏文科中退。
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[編集] 家族
大叔父は二代目市川左團次。父は小山内薫らと築地小劇場の設立に参画した浅利鶴雄。鶴雄の母浅利たけの妹が左団次の妻で、左団次に子がなかったため慶太に左団次を継がせる話もあり、幼い頃は左団次の家にいたこともある。
[編集] 来歴・人物
1953年、慶應義塾大学、東京大学の学生を中心に劇団四季を結成。主に、ジャン・アヌイやジャン・ジロドゥ等フランス文学作品を上演する。 1961年、日生劇場製作営業担当取締役に就任。1969年、日本ゼネラルアーツを設立。 1966年から75年まで越路吹雪リサイタル公演を日生劇場において演出、一躍名を上げた。
[編集] 持ち前の集客・集金力で劇団を巨大劇団に
70年代から海外ミュージカルの翻訳上演を始め、莫大な集客・集金力により、劇団四季を日本でも例をみない巨大劇団へと成長させる。それまでの日本の演劇のメイン・ストリームは集客力のある役者を中心とした商業主義の新派、または杉村春子などのカリスマを中心としたイデオロギー中心の左翼傾向集団が多かったが、彼はそれを演目中心のインデペンデンスとして成立させた。この影響は演劇界に留まらない。興行面においても1983年『キャッツ』初演において日本で初めて無期限ロングラン公演を成功させた。
80年代以降、日本が文化事業に積極的に財政支出するようになったのは浅利の功績による所も大きいと言われている。
[編集] 成功の秘訣
この成功の理由の一つに、浅利の持つ経営力と政治力、そして強力な人脈が挙げられる。特に、歴代総理をはじめとする、財政界へのパイプの太さ、交流の広さには目を見張るものがある。一方で演劇人でありながら政治家や経済人と過度に繋がりを持つため「演劇政治家」などと悪口を言われることもあるが、政府からの褒章の類は一切断っており、単純に名誉を求める人物ではないことはもっと認識されるべきだろう。
[編集] 妥協を許さない厳しい稽古指導等
ワンマン経営家としても有名であり、経営者としてのリーダーシップは注目に値するが、反面、劇団の若手演出家を育てず、独断で演出、配役、台本を行っており、演劇人としてのクオリティについては賛否が分かれる。さらに、劇団員に対しては、蜷川幸雄の様に妥協を許さない厳しい稽古指導をしており、浅利の門下生で劇団員だった立原啓裕は後年番組で「入団間なしの団員は、丸坊主や陰毛を剃らなければならない等、厳しかった。」と話している。
[編集] 近年
近年では1985年12月ミラノ・スカラ座での『蝶々夫人』『トゥーランドット』『エレクトラ』の演出や、長野オリンピック開会式の総合プロデューサーも担当。また、創立当初からのポリシーであるアヌイ、ジロドゥ作品の上演や、太平洋戦争や日中戦争を題材とした「昭和三部作」の上演にも力を入れている。
2006年10月、政府の教育再生会議委員に就任。
主な受賞歴
1974年・51年 紀伊國屋演劇賞
1976年 芸術選奨文部大臣賞
1984年 テアトロ演劇賞
1985年 アビアッティ賞 イタリア音楽批評家賞
1986年 経済界大賞特別賞
1993年 日本シェイクスピア賞シェイクスピア演劇賞
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