浅野総一郎
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浅野 総一郎(あさの そういちろう、1848年4月13日(嘉永元年3月10日) - 1930年11月9日)は日本の実業家。
[編集] 経歴
越中国氷見郡藪田村(現・富山県氷見市)に、医師浅野泰順の次男として生まれた。
明治 4年、24歳の時に上京し、御茶の水で裸一貫「水売り」から出発する。 コークス、コールタールの廃物利用で儲け、1884(明治17)年には官営深川セメント製造所を好条件で払い下げられ、これが浅野セメント(後の日本セメント、現太平洋セメント)の基礎となる。浅野セメントの設立をきっかけに浅野造船所(後の日本鋼管、現JFE)など多数の会社を設立。渋沢栄一や安田善次郎の協力のもと、第一次世界大戦の特需を受け一代で浅野財閥を築く。
また1914(大正 3)年には鶴見で東京湾の埋め立てをはじめるなど、京浜工業地帯の形成に寄与するとともに、「明治期のセメント王」と呼ばれる。
京浜工業地帯の埋立地に鶴見臨港鉄道(鶴見線の前身)を設立し、浅野駅にその名を残す。終点の扇町駅がある「扇町」の地名も、浅野家の家紋の扇に因むものである。
銅像が浅野学園の敷地内に建てられており、墓所は神奈川県横浜市鶴見区の總持寺である。曾孫・浅野昌英はダイエー創業者中内功の娘と結婚した(その後離婚)。