学校法人浅野学園
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
浅野中学校・高等学校 | |
過去の名称 | 浅野綜合中学校 浅野学園中学校・高等学校 |
国公私立の別 | 私立学校 |
設置者 | 学校法人浅野学園 |
設立年月日 | 1920年1月20日 |
校訓 | 愛と和 九転十起 |
創立記念日 | 1月20日 |
創立者 | 浅野總一郎 |
共学・別学 | 男子校 |
中高一貫教育 | 併設型(高校募集無し) |
課程 | 全日制課程(高校) |
単位制・学年制 | 学年制による教育(高校) |
学科 | 普通科(高校) |
所在地 | 〒221-0012 |
神奈川県横浜市神奈川区子安台1-3-1 | |
電話番号 | 045-421-3281 |
FAX番号 | 045-421-4080 |
外部リンク | http://www.asano.ed.jp |
浅野学園(あさのがくえん)は、横浜市神奈川区子安台にある男子校の浅野中学校・浅野高等学校を運営する学校法人。創立者は、実業家・浅野總一郎で、創立年は1920年(大正9年)である。80年超の伝統ある、横浜を代表する名門私立校のひとつである。中学受験では神奈川御三家の1校。
目次 |
[編集] 沿革
- 1920年1月 (大正9年) 浅野綜合中学校の設置が認可。
- 1920年4月 (大正9年) 初代校長に水崎基一就任
- 1923年 (大正12年)実習場が建設され、工場実習が課外必修となる
- 1923年9月 (大正12年)関東大震災により校舎の大部分が倒壊
- 1925年5月 (大正14年)校内にコンクリート工法講習所(現在の浅野工学専門学校の前身)
-
-
-
-
- 開設
-
-
-
-
- 1937年8月 (昭和12年)第23回全国中等学校野球選手権大会出場
- 1937年11月(昭和13年)初代校長水崎基一死去
- 1938年7月 (昭和13年)第二代校長に神名勉聰就任
- 1938年8月 (昭和13年)第24回全国中等学校野球選手権大会出場、ベスト8
- 1939年3月 (昭和14年)第16回選抜中等学校野球大会出場
- 1945年5月 (昭和20年)空襲により木造校舎の全部を焼失
- 1947年3月 (昭和22年)新学制により浅野学園中学校を設置
- 1948年3月 (昭和23年)新学制により浅野綜合中学校は新制高校に移行
-
-
-
-
- 校名を浅野学園高等学校と改称する
-
-
-
-
- 1948年8月 (昭和23年)第30回全国高等学校野球選手権大会出場
- 1951年3月 (昭和26年)私立学校法の制定により財団法人が発展解消して、
-
-
-
-
- 学校法人浅野学園となる
-
-
-
-
- 1951年3月 (昭和26年)浅野学園高等学校および浅野学園中学校を、
-
-
-
-
- それぞれ浅野高等学校、浅野中学校と改称する
-
-
-
-
- 1967年6月 (昭和42年)学園長に神名勉聰、第三代校長に浜野駿吉就任
- 1970年1月 (昭和45年)創立50周年
- 1971年10月(昭和46年)校地が神奈川県愛護林鳥獣保護区に指定される
- 1978年4月 (昭和53年)第四代校長に石山延雄就任
- 1984年5月 (昭和59年)新格技場竣工
- 1987年3月 (昭和62年)高校新校舎(現中学校舎)竣工
- 1990年1月 (平成2年) 第五代校長に山口敬三就任
- 1994年9月 (平成6年) 第六代校長に石橋義史就任
- 1995年7月 (平成7年) 本館、中学・高校新校舎竣工
- 2000年1月 (平成12年)創立80周年
- 2002年4月 (平成14年)学園長に石橋義史、第七代校長に淡路雅夫就任
- 2004年3月 (平成16年)学園長石橋義史退任
[編集] 概要
浅野總一郎は大正期に米国視察を通じ、フォード・モーター等米国の有力企業で人材教育が重視されていることを知り感銘を受け、本学園設立を着想。教養と高度な職業能力を併せ持つ人材を浅野財閥各社をはじめとする民間企業へ供給するという、実業学校的理念を強く持って開校された。当初はアメリカのゲイリーシステムという勤労主義を導入。学内の一角に作られた工場による科学技術教育と、実用的な語学教育を特色としていた。また、戦前~戦後まもない頃は神奈川県内屈指の野球の強豪校として知られ、甲子園に春1回・夏3回出場している。最高位は全国ベスト8。戦後は、夏の県大会優勝1回(甲子園出場)、同ベスト4が2回、秋季県大会優勝3回、春季県大会優勝1回。
戦後の学制改革に伴い旧制中学を改組し中高一貫体制を確立、進学校を志向する。1970年代頃より東大早慶等の難関大学への進学実績を伸ばし、現在では首都圏有数の進学校として高い評価を得ている。近年の大学合格実績は東大20名台半ば、早慶各100名超程度で推移している。また、理・医系への進学比率が高いのも特徴である。中・高合わせ全校生徒は、およそ1,600人ほど。毎年270名の新中学1年生を募集し、約2,200人あまりの志願者がいる。神奈川県受験者の約半分程度の人数がこの学校を受験する。競争倍率・合格水準ともに高いことから、中学受験関係者の間では“人気校かつ難関校”との定評がある。
[編集] 教育方針
[編集] 校訓
- 愛と和
- 九転十起
[編集] スローガン
[編集] 概要
自主独立の精神、義務と責任の自覚、高い品位と豊かな情操を具えた、心身共に健康で、創造的な能力を持つ、逞しい人間の育成に努める。
[編集] カリキュラム
特色として、希望大学への進学を実現するための6ヵ年カリキュラム、授業を基本にした効率的な指導、実績に裏付けられたオリジナルテキストの利用、の三点が挙げられる。
[編集] 校章の由来
3つのAと月桂樹から形作られている。
Aは浅野の頭文字であると同時に“一番・優秀”の象徴であり、3は“智・仁・勇”“天・地・人”を意味している。月桂樹は“栄誉・勝利”“幸運・誇り”の象徴であり、桂冠は古代ギリシャのスポーツ競技の勝者をはじめ、ローマの戦勝将軍や大詩人に与えられた才知への報償である。
つまり、「常に誇り高き勝利者たれ」という生徒たちへの願いが込められている。
[編集] 校歌
作詞・高野辰之、作曲・信時潔
旧制浅野綜合中学時代に制定された。後半部の旋律が軍歌調である点が特徴的。
浅野学園同窓会ホームページで、聴くことができる。
[編集] 校風
旧制中学時代からの質実剛健・バンカラ気質(飾り気の無い自由な雰囲気)であるといわれている。
また中高一貫教育であり、クラブ活動への参加率も高く、教員の多くが本校OBでもあることから人的結びつきが強くアットホームな雰囲気が醸成されている。ちなみに第三代以降の歴代校長は全員本校OBである。
また伝統校であることから父子二代、父子孫三代続けて卒業生である家庭や、兄弟で在学というケースも多い。
もともとは、浅野財閥と由来のある日本鋼管(現JFEホールディングス)の社員の子息が多く、その後進学校としての実績が上がるにつれ、横浜旧市街(中・西・神奈川の各区)から通う経営者や医師・弁護士等の子息が多くなったが、90年代以降は大手企業社員や教員・公務員の子息が多数を占め、通学エリアも湘南地区、横浜北部・川崎西部の東急田園都市線沿線や東京城南地区からの生徒が多い。
神奈川県内の中高一貫の名門校のなかにあって、戦後生まれのミッションスクールである栄光学園・聖光学院・サレジオ学院や、大規模新興校である桐蔭学園・桐光学園、仏教系の鎌倉学園、大学まで一貫の慶應義塾各校とは一線を画した校風であり、県立伝統高校に似た雰囲気を持っている。
制服は古くから中高ともに真っ黒な学ランで、かつては制帽もあった。
[編集] クラブ活動
体育系17部、文化系12部。任意加入であるが、参加率は中学生ではほぼ100%、受験生である高校3年生でも運動部を中心に3分の2の生徒がチームの中核として引退せずにクラブ活動を続けている。本校の場合、クラブ活動に熱心な生徒は学業成績も概して良好である。
現在比較的強いといわれているのは水泳、ボクシング、アーチェリー、ハンドボール。文化部では演劇、鉄道研究、時報、棋道の評価が高い。かつては野球部が全国レベルであった。
部員数が多く盛んな部は 野球、テニス、サッカー、ハンドボールなどである。
[編集] 地理
京浜工業地帯、ベイブリッジを眼下に見渡す高台に位置し、曇天でもよく見える。また、晴れた日には遠くに富士山を望むこともできる。 58,655m²の広大な敷地を有し、そのほぼ半分は浅野総一郎翁像がある「銅像山」と呼ばれる自然林に占められ、豊な緑で包まれている。
[編集] 交通
[編集] 施設
[編集] 校内
敷地内には、グラウンド、本館、中学棟、高校棟、講堂、生徒ホール、体育館、プール、第1広場、第2広場、多目的コート、部室、クラブハウス(中学生用部室)、テニスコート、格技場(柔道場)、剣道場、卓球場、ハンドボールコート、銅像(浅野總一郎翁)がある。地下2階、地上5階建ての新校舎(高校棟)は最新機器を導入したコンピュータ室、120インチビデオプロジェクターを備えた語学演習室をはじめ先進の教育環境を整えている。また、2007年春には中学棟に新しくエレベーターが設置されるなどバリアフリー化も進んでいる。スポーツ施設が各種整い、クラブ活動や体育の授業に活用されている。しかし、実質それぞれのコートが1つずつしかないので、人数の多いテニス部などの生徒たちのなかには、銅像山の開拓を求める生徒もいる。
[編集] 遅刻坂
正門から校舎群のある丘まで続く、長く傾斜の急な坂の通称。遅刻間際の生徒の心臓を破る難所であるところから由来されたものと考えられている。校舎が丘を切り開いて建てられたので、中学校舎1階が体育館の屋根より高い場所にあるなど敷地内の高低差がかなりあり、校門から下駄箱まで5分以上かかることもある。校歌にも出てくる「打越坂」という呼称が正式なものであるが、生徒・OBは「遅刻坂」と称することが通例。打越とは当地の旧地名(字名)である。「打越坂」は万難を打ち越して行こうという“九転十起”(校訓)の精神にも通じるネーミングである。
[編集] 銅像山と浅野翁像
銅像山とは、校地の南東に位置する小高い山。頂上には浅野總一郎翁の巨大な銅像が置かれており、京浜急行本線・京急新子安~生麦間の車窓からも確認することができる。平行して走るJR線からも確認できるが、角度的に、車内でかなり窓に近寄らないと難しい。
この銅像山は、遅刻坂を上がりきる少し手前から左に曲がって更に登るようになっていることから、運動部の練習としてクロスカントリーをするのに格好の、極めて厳しいコースとなっている。
山頂はちょっとした広場になっており(ほとんど駐車場と化しているが)、ここから見下ろす浅野翁の開拓した京浜工業地帯は、壮観である。
銅像の台座には、浅野總一郎が設立に関与した各企業名等の記された銘版が埋め込まれ、彼の業績が讃えられている。
[編集] 主な卒業生
政治
- 大出俊(政治家:元郵政相/衆院議員・日本社会党)
- 藁科満治(政治家:元内閣官房副長官/参院議員・民主党・連合、電機連合顧問)
- 小泉一郎(政治家:元神奈川県議会議員/JAセレサ川崎組合長)
- 加藤行一(政治家:横須賀市議会議員、元横須賀市議会議長、関東議長会会長)
経済・経営
- 堀威夫(起業家:株式会社ホリプロ取締役ファウンダー)
- 長谷川耕造(起業家:株式会社グローバルダイニング代表取締役)
- 井上惠博(起業家:株式会社ケーユー代表取締役会長兼社長)
- 西谷誠一(公認会計士:監査法人トーマツ元代表社員)
- 田中義正(経営者:株式会社電通リサーチ元代表取締役社長)
- 柴田博一(経営者(創業家):キーコーヒー株式会社名誉会長、元代表取締役社長、会長)
- 上浦種彦(経営者:昭栄株式会社元代表取締役社長、会長)…村上ファンドによる敵対的TOBを受けた時の社長
法曹
- 加藤修(弁護士:水俣病第三次弁護団)
学術・教育
- 永沢満(工学博士:名古屋大名誉教授、元豊田工業大副学長)
- 北本勝ひこ(東京大学教授)
- 太幡利一(昭和薬科大名誉教授)
- 佐藤寿(工学博士:元日大教授)
- 本谷勲(東京農工大教授)
- 桜井一郎(明治大教授)
- 西山良雄(東北学院大教授、大学院文学研究科長)
- 志村幸雄(関東学院大教授)
- 山口彦之(駒澤大教授)
- 青柳剛(酪農学園大学教授)
- 岩本秀雄(大妻女子大教授)
- 田中啓陽(水産学博士:香川大名誉教授)
- 畑孝一(社会学者:奥羽大学教授、福島大名誉教授、教育学部長)
- 山口惇(工学博士:元横浜国立大教授、工学部長、工学研究院長、工学府長)
- 宗川吉汪(京都工芸繊維大教授)
- 冨安博(東京工業大教授)
- 棟方正信(北海道大教授)
文化・芸術
- 八木柊一郎(劇作家)
- 竹内一郎/さいふうめい(作家:『人は見た目が9割』『戯曲・星に願いを』『哲也-雀聖と呼ばれた男(原作)』・元九州大谷短大助教授)
- 長崎源之助(童話作家:旧制浅野綜合中中退)
- 原良次(画家:二科会評議員)
スポーツ
- 飯田徳治(プロ野球:野球殿堂・元南海ホークス、国鉄スワローズ選手/監督)
- 渡辺和三(クレー射撃:92年オリンピックバルセロナ大会銀メダル・クレー射撃トラップ)
- 田尾純一(ボクシング:77年岡山総体出場、慶大ボクシング部監督・神奈川県アマチュアボクシング連盟理事)
- 中村開 (ボクシング:高校総体出場、慶大ボクシング部時代全国選手権入賞・神奈川県アマチュアボクシング連盟審判員)
報道・マスコミ
歴代学校長
- 浜野駿吉(第三代:大正14年卒)
- 石山延雄(第四代:昭和6年卒)
- 山口敬三(第五代:昭和18年卒・化学)
- 石橋義史(第六代:昭和29年卒・現代文)
- 淡路雅夫(現校長:昭和38年卒・政治経済)