南武線
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南武線(なんぶせん)は、神奈川県川崎市川崎区の川崎駅と東京都立川市の立川駅結ぶ東日本旅客鉄道(JR東日本)の鉄道路線(幹線)である。そのほか以下の支線を持つ。
目次 |
[編集] 路線データ
- 路線距離:旅客区間39.6km/貨物区間39.4km
- 軌間:1067mm
- 駅数:
- 本線25駅(起・終点駅含む)
- 支線3駅(尻手駅を除く)
- 複線区間:川崎駅~立川駅間
- 電化区間:全線(直流1500V)
- 閉塞方式:自動閉塞式
- 運転指令所:東京総合指令室
- 車両基地:中原電車区(武蔵中原駅)
- トンネル:府中本町駅(分倍河原駅側)の上り線に1ヶ所のみ。
- 橋梁:多摩川、二ヶ領用水、三沢川、平瀬川など。
[編集] 概要
本線は、神奈川県の川崎駅と東京都の立川駅を結ぶ路線で、川崎市を南北に貫く動脈であり、東京都心や山手線から郊外に延びる複数の放射状路線と交差する、いわゆる環状路線(フィーダー線)の一つ(他に京王井の頭線・東急大井町線・横浜線・東武野田線の例がある)となっており、京葉線・武蔵野線と連続する東京の外環状線の一部を構成している。また、川崎駅の隣の尻手駅からは、鶴見線の浜川崎駅へと伸びる南武支線と、新鶴見信号場へと伸びる尻手短絡線が存在する。
なお、本線のうち唯一の横浜市内にある矢向駅のほか、川崎駅および尻手駅も運賃区分上は横浜市内の駅として扱っている。これは、両駅が川崎市内にあるものの、「横浜市内」の中心駅である横浜駅から矢向駅に行く途中にあるため、両駅も「横浜市内」に加える方が合理的だからである。「横浜市内」の詳細は特定都区市内を参照。
多摩川とは全線で並行し、右岸を走る南側では多摩丘陵東端に沿って多摩川の氾濫原を走る。多摩川を渡った北側では立川崖線を登り、武蔵野台地上を走る。多摩川の河川敷は現在は橋梁上でしか見られない(堤防は稲城市内の高架線や登戸駅付近で見える)。川崎市内では二ヶ領用水とも並行し、その本川および川崎堀とは中野島・宿河原・久地・武蔵小杉・平間の各駅付近で計5回交差する。
沿線にはNEC・富士通・東芝などの電機・情報技術関連企業やその子会社の多くの工場、ミツトヨの本社、後述のKSPが立地し(特に川崎市中原区を中心とした一帯は「日本のシリコンバレー」と呼ばれることもある)、近年は川崎市の公報を中心に南武線を“ハイテクライン”と呼ぶこともある。また川崎競馬場・川崎競輪場・京王閣競輪場・多摩川競艇場・東京競馬場・立川競輪場などの公営競技の施設も沿線に多く、特に東京競馬場の開催日は会場に出向く乗客で混雑するため、臨時列車を運行することもある。
全体の線形は比較的良く、線内の最高運転速度は95km/hであるが、駅間が短く、半径400m級の曲線も多いため、最高速度で走行する区間は限られる。駅間が特に短い武蔵溝ノ口駅~登戸駅や南多摩駅の前後では半径300m~400m級(制限60km/h~75km/h)の曲線区間が連続し、高速運転の支障になっている。
本線のレールは立川駅では中央線や青梅線とつながっているが、川崎駅では東海道本線や京浜東北線とは直接はつながっていない。東海道本線や横須賀線へ出る時は尻手から南武支線と東海道貨物支線を経由して鶴見へ出る。実際、検査のために車両を鎌倉車両センターへ送る場合、尻手から南武支線で浜川崎へ出て、そこから東海道貨物支線経由で鶴見へ出て、そこからは東海道本線を走り大船の同車両センターへと向かう。また、府中本町駅では武蔵野線と旅客ホームを経由しない形態でつながっている。
[編集] 運行形態
列車種別は各駅停車のみである。本・支線とも他路線との定期列車の直通運転は行われていない(旅客回送列車と貨物列車は除く)。列車番号の末尾は本線が"F"で、支線が"H"である。
利用度は立川~府中本町間を除き川崎寄りで高いため、昼間以外は川崎から武蔵溝ノ口・登戸・稲城長沼の各駅までの折り返し列車と全線通しの列車が多数設定されている(ただし立川・稲城長沼・登戸~武蔵溝ノ口・武蔵中原間の折り返し列車も1日数本設定されている。そのほか朝に2本登戸発立川行の電車がある)。車両基地(中原電車区)が武蔵中原駅構内にあり、朝のラッシュ後と終電近くには下り武蔵中原行の列車も設定されている。早朝と夕ラッシュの1時間30分前には武蔵中原始発上り川崎行もある。また一部早朝と夕ラッシュ時には矢向始発上り川崎行の列車もある。
運行本数(川崎側)は、平日は朝が2~4分間隔、昼間が10分間隔、夕方が4~6分間隔、土曜・休日は朝が5~6分間隔、昼間が8~9分間隔、夕方が7~8分間隔であり、昼間は平日より土曜・休日の方が本数が多くなっている。
また、尻手駅から浜川崎駅までの支線(通称浜川崎支線、南武支線、浜川崎線)を持ち、線内でワンマン運転を行う列車が折り返し運転を行っている。川崎区内は路線バスの本数が多いこともあり、こちらは昼間は1時間に1~2本の閑散ダイヤであるが、朝夕には本数が増え、平日・土曜日の沿線工場への通勤客を中心に利用されている。
[編集] 快速運転
戦前には川崎~武蔵溝ノ口間に準急が運行されていたという話があるほか、国鉄時代の1969年12月15日から1978年10月2日まで川崎~登戸間に快速列車が運行されていた。中央線の武蔵小金井電車区から朱色の101系を借用して10~15時台に運転間隔60分で1日6往復運行された。途中停車駅は東急と接続する武蔵小杉と武蔵溝ノ口の2駅のみで、途中駅での各駅停車との接続は一切なかった(武蔵中原での追い抜きは行われていた)。昼間の各駅停車を減便する形で快速運転を実施したこともあって、利用者からはとにかく不評で、しまいには社会党の議員なども介入し国鉄に対して運転中止を申し立て、廃止運動まで発展することもあった。この快速運転は、旧型車から101系への車両置き換えが完了して各駅停車の速度が向上したことを理由に中止された。
なお、JR民営化後の長期計画では稲城長沼駅・武蔵溝ノ口駅などの改良(2面4線化)を前提とした快速運転の復活が挙げられている。稲城長沼駅は高架化により2面4線に改良されるものの、武蔵溝ノ口駅の改良は一段落しており、2007年現在、JR側の快速運転の実現に向けた動きは全く見られず、2006年3月に導入された発車標でも快速という種別を表示するスペースはほとんどないに等しい(後述する「川崎-奥多摩ハイキング号」の場合は列車名と時刻が交互に表示される)。一方で、南武線の駅は利用者が多い駅と少ない駅の差が大きくなってきており、南武線と接続する各路線では武蔵野線以外は優等種別の存在が当たり前になっていることから、一部の利用者からは毎年のように快速運転の復活が要望されている。ただし、快速を走らせるとしても、ラッシュ時の本数の多さ、昼間時の本数の少なさの両極端との兼ね合いが問題である。昼間の本数の少なさから、特に川崎側の他線と接続しない駅の利用者からは各駅停車を増発せずに快速を復活することに反対する声があがる可能性もあり、過去の快速廃止は利用者にはほとんど記憶されいていないが一部遺恨を残している可能性もある。ちなみに205系には「快速」の幕が準備されている。
臨時列車では快速「川崎-奥多摩ハイキング号」が毎年のレジャーシーズン限定で運行されている。南武線内の停車駅は川崎・武蔵小杉・武蔵溝ノ口・登戸・立川である(府中本町に停車したこともあったが、後に中止された)。ちなみに、下りは武蔵溝ノ口で、上りは武蔵中原で各駅停車を追い越す。2003年からは201系「四季彩」(4両編成)が使用されている。
[編集] 貨物列車
浜川崎~尻手間は旅客線は単線であるが、並行して東海道貨物線が敷設されており、川崎新町場内より複線となる。この区間は浜川崎・川崎貨物・東京貨物ターミナル発着の東海道貨物支線の貨物列車と尻手方より合流してきた新鶴見信号場からの貨物列車が多く運行されている。
本線上は、かつては奥多摩で採れた石灰石を運ぶ青梅線から直通の「石灰石列車」が多く運行されていたが、1998年8月13日限りで運休し、10月3日のダイヤ改正で廃止された。現在は安善から在日米軍横田基地へジェット燃料用石油を輸送する列車(通称『米タン』)がほぼ全線に亘って運行されるほか、府中本町駅以北から武蔵野南線、新鶴見信号場~尻手間の尻手短絡線を経由して東京貨物ターミナル方面へ向かう列車がある。
[編集] 問題点
南武線は2007年3月18日のダイヤ改正までは平日日中の運行本数が毎時5本で、土曜・休日日中よりも運転本数が2本少なかった(西側を並行して走っている横浜線は各駅停車が毎時6本で快速が毎時2本設定されているため、比較的接続は良かった)。南武線と乗換えが出来る各線で毎時5本(12分サイクル)というダイヤ設定をしていた路線は武蔵野線以外はないため、本数(運転間隔)の違いや発着時刻のずれなどから他路線との接続が非常に悪く、JR・私鉄各線から南武線に乗り換える時は駆け込み乗車が多く乗り遅れることも少なくなかった。
なお、2007年3月18日のダイヤ改正([1])で平日日中の運転本数が毎時6本になったので、この問題についてはほぼ改善されたもようであるが、登戸駅はこの改正で小田急線上り急行・多摩急行と南武線上り、南武線下りと小田急線下り急行・多摩急行の発車時刻がほぼ同じになったため引き続き接続が悪い。
他のJR線は編成が8~15両であるのに対し、南武線は1編成あたり6両と短いため、他の路線よりも混雑率が高いことが多く、特に川崎発22時以降の立川行は20分に1本程度になるため、深夜帯でありながら朝の通勤ラッシュ並みの混雑になることが多い。しかし、編成を長くするにはホーム延伸が必要となるが、踏み切りに挟まれるなど立地条件上これ以上延伸できない駅も多いため難しい。だからといって、朝の増発は留置容量の増加が必要であるため困難であり、これ以上は不可能であるのが実情であると考えられている。また、深夜増発をした場合、武蔵中原など車両が留置できる駅まで車両を回送する必要があるほか、西国立~立川間の曲線で発生するフランジ音により少なからず苦情が来ているため、立川までの増発は不可能に近いと考えられている。なお現在期間・曜日限定で武蔵中原行を稲城長沼まで延長運転している。
平日朝ラッシュ時には上りの登戸~川崎間が2分30秒間隔で運転されているため、踏切が開かない時がある。それによる交通渋滞も慢性化していてバスは定時運行が不可能であり、また踏切遮断による大気汚染も発生しているため、早期の解決を求める署名運動もある。
他の路線と同様に、ラッシュ時間帯を含め205系において座席の色分けがなされているものの、定員着席が行われていないことが多々ある。これにより混雑が増しているともいえる(209系は座席が1人分ずつ区分されているので、こういったことは起こりにくい)。
[編集] 歴史
南武線は、私鉄の南武鉄道により開業した路線である。
免許の出願は多摩川砂利鉄道として行われており、多摩川の川原で採取した砂利を運搬するのが目的であった。1920年1月29日に免許が交付された後、3月1日に会社を設立し、社名を南武鉄道に改称した。3月17日には終点を立川まで延長、府中町~国分寺町間の支線の敷設を追加で申請した。これらは単に砂利を運搬するだけでなく、多摩地域と川崎とを結ぶ交通路線となることも目指したものであった。
会社設立の際、資金集めに難航し、地元の発起人が次々と脱退した。そんな中、浅野セメント(現在の太平洋セメント)の浅野総一郎とその系列企業が名乗りを上げた。浅野総一郎は既に青梅鉄道(現在の青梅線)を傘下に収めており、セメントの原料である石灰石を青梅鉄道から中央本線・山手線・東海道本線経由で工場のある川崎まで運んでいた。川崎と立川を結ぶ南武鉄道を傘下にすればすべて自分の系列の路線で運搬することができ、輸送距離も大幅に短くなる。両者の利害が一致し、南武鉄道は浅野系列となった。
1927年3月9日に川崎駅~登戸駅間が開業した(同日、貨物線の矢向~川崎河岸間も開業したが、1970年5月25日廃止)。当初から全線電化路線であった。電車6両、蒸気機関車2両、貨車44両を保有していた。目黒にあった競馬場を沿線の府中に誘致し、稲田堤の桜や久地の梅園などへの花見客を誘致するなど、利用者増加のための努力が行われ、特に競馬開催時に電気機関車牽引の客車列車を運転するほどの利用客があった。1927年11月1日に登戸~大丸(現・南多摩)間、1928年12月11日に大丸~屋敷分(現・分倍河原)間を延伸、1929年12月11日に分倍河原~立川間を開業、全線が開通した。全通当時は川崎~立川間35.5kmを1時間10分で結んでいた。1930年3月25日に支線の尻手~浜川崎間も開業した。
1930年代以降、沿線には日本電気、富士通信機製造(現・富士通)などの工場が進出し、沿線の人口が急増、南武鉄道はその通勤客を運ぶことになった。また、帝都防衛のための軍事施設も沿線に多く造られ、そのための軍事輸送も南武鉄道が担うこととなった。また、石灰石輸送などにおける浅野の資本系列の奥多摩電気鉄道、青梅電気鉄道、南武鉄道、鶴見臨港鉄道の連携が重要視され、4社の合併への協議がなされた。合併交渉途上に鶴見臨港鉄道が国有化されたが、1943年9月には残る3社の合併が決定し、1944年2月に関東電鉄(関東鉄道との記述もあり。茨城県の関東鉄道とは別)が発足することとなっていたが、東海道線や工業地帯と中央線を結ぶ重要路線であること、重要物資である石灰石を輸送していること、軍事施設や重要工場が沿線に存在することなど軍事上重要な路線であるという理由で、1944年4月1日に戦時買収私鉄指定で国有化され南武線となった。この頃に一部の駅が廃止されている。なお、戦後1946~1949年頃に4社で払い下げ運動がなされた際も払い下げ後はただちに4社が合併して関東電鉄となる予定であった。
その際に南武鉄道は会社を解散せず、バス事業を立川バスに継承し、路線以外で保有していたわずかな土地を管理する会社となった。その後アサノ不動産→太平洋不動産(現在の本社は東京都。神奈川県に本社を置く同名の会社とは別)と社名を変更し、太平洋セメントの傍系会社として現在も存続している。
戦後、高度経済成長により東京都区部の人口が増加すると、南武線沿線も私鉄との乗り換え駅を皮切りに都市化が進み、利用客が急増した。国鉄は車両の増結と複線化工事の実施などで輸送力増強を進め、1960年代後半には6両化と全線の複線化(1966年9月30日)を完成させた。その後も車両の大型化や新型化、一部区間の高架化などの事業を進めている。高架化は1990年12月20日に武蔵小杉~武蔵溝ノ口間、2005年10月9日に稲田堤~稲城長沼間が竣工した。
1980年代には、武蔵溝ノ口にあった東芝や鹿島田の日立製作所など一部の工場が郊外に移転した敷地にパークシティなどの高層マンションが建つようになり、沿線人口はさらに増加したが、1990年代以降の乗客の増加率は横這い状態にある。なお、武蔵溝ノ口の池貝鉄工跡にはKSP(かながわサイエンスパーク)が建てられた。
2007年現在、武蔵小杉など沿線ではマンション建設が盛んで、再び混雑が進んでいる。 また、稲城長沼~南多摩間の立体交差事業が2012年度完成を目指して進行中であり、2008年度には分倍河原~谷保間に新駅「西府」が開業、2009年度には、横須賀線にも武蔵小杉駅が開業する。
[編集] 年表
- 1920年(大正9年)1月29日 - 多摩川砂利鉄道として川崎町~稲城間の鉄道敷設免許を取得。
- 3月1日 - 南武鉄道設立。
- 1927年(昭和2年)3月9日 - 川崎~登戸間、貨物支線 矢向~川崎河岸間開業。
- 尻手停留場、矢向駅、鹿島田停留場、平間停留場、向河原駅、グラウンド前停留場、武蔵中原駅、武蔵新城停留場、武蔵溝ノ口駅、宿河原駅、登戸駅、川崎河岸駅開業。
- 既存区間にグラウンド前停留場(現在の武蔵小杉駅)、武蔵小杉停留場開業。新規開業区間に中野島停留場、稲田堤停留場、矢野口停留場、稲城長沼駅、大丸停留場(南多摩駅の0.3km川崎方面・現在廃止)開業。
- 1928年(昭和3年)8月7日認可 - 稲田堤停留場を駅に格上げ。
- 1929年(昭和4年)頃 - 尻手停留所を駅に格上げ。
- 1929年(昭和4年) - 是政多摩川停留場を南武是政停留場に改称(1932年6月17日届出)。
- 1930年(昭和5年)3月25日 - 貨物支線 尻手~浜川崎間開業。八丁畷停留場、川崎新町駅、新浜川崎駅開業。
- 4月10日 - 尻手~新浜川崎駅間で旅客営業を開始。
- 1931年(昭和6年) - 大丸停留場を多摩聖蹟口停留場に改称。
- 1932年(昭和7年)5月20日 - 矢川駅開業。
- 1933年(昭和8年)6月16日認可 - 南武是正駅を停留場に格下げ。
- 1934年(昭和9年)4月1日 - 宿河原不動停留場(久地梅林~宿河原間・現在廃止)開業。
- 10月21日 - (貨)南多摩川駅(現在の南多摩駅)開業。
- 1936年(昭和11年)1月 - 登戸連絡線の仮設物認可。
- 1937年(昭和12年)10月30日 - 向河原~武蔵中原間複線化。
- 1939年(昭和14年)4月5日 - 武蔵中原~武蔵溝ノ口間複線化。
- 9月14日 - 南多摩川駅が多摩聖蹟口停留場を併合し移転、南多摩駅に改称し旅客営業開始。
- 1940年(昭和15年)8月5日 - 向河原駅を日本電気前駅に改称。
- 1941年(昭和16年)2月5日 - 日本ヒューム管前停留場(現在の津田山駅)開業。
- 1941年(昭和16年)頃 日本ヒューム管前~久地梅林間複線化。
- 1942年(昭和17年)4月16日認可 - 久地梅林停留場を駅に格上げ、同時に久地信号場を併合。
- 1943年(昭和18年)4月9日認可 - 日本ヒューム管前停留場を駅に格上げ。
- 1944年(昭和19年)2月1日 - 関東電鉄発足予定(実現せず)。
- 4月1日 - 国有化。国鉄南武線となる。
- 武蔵小杉停留場、宿河原不動停留場、南武是政停留場、本宿停留場、西府停留場、東立川停留場廃止。停留場を駅に格上げ。新浜川崎駅を浜川崎駅に、市ノ坪駅を新鶴見操車場に統合。日本電気前駅を向河原駅に、グラウンド前停留所を武蔵小杉駅に、日本ヒューム管前駅を津田山駅に、久地梅林駅を久地駅に改称。
- 1945年(昭和20年)4月15日 - 空襲により川崎~向河原間不通、17日に浜川崎まで、19日向河原まで開通、平間駅と武蔵中丸子駅休止。
- 6月10日 - 武蔵中丸子駅廃止。
- 1946年(昭和21年)5月1日 - 平間駅営業再開。
- 1960年(昭和35年)3月20日 - 久地~宿河原間複線化。
- 3月27日 - 武蔵溝ノ口駅~津田山間複線化。
- 1962年(昭和37年)8月7日 - 久地~津田山間の踏切で電車が小型トラックと衝突して脱線、対向電車と衝突、3人死亡。
- 1963年(昭和38年)11月7日 - 登戸~稲田堤間複線化。
- 11月12日 - 稲田堤~稲城長沼間複線化。
- 1966年(昭和41年)3月25日 - 谷保~西国立間複線化。
- 9月30日 - 稲城長沼~谷保間複線化。立川駅構内を除き全線の複線化が完成。
- 1969年(昭和44年)12月15日 - 101系を武蔵小金井区より借用。日中に60分間隔で快速の運転開始。
- 1972年(昭和47年)5月25日 - 貨物支線 矢向~川崎河岸間廃止。川崎河岸駅廃止。
- 1973年(昭和48年)10月1日 - 貨物支線 向河原~新鶴見操車場間廃止。貨物支線 尻手~新鶴見操車場間開業。
- 1976年(昭和51年)3月8日 - 京浜東北線から101系が大阪の片町線とともに南武線に転入、南武線の半数が101系となる(1978年に101系へ統一)。
- 1978年(昭和53年)10月2日 - 快速の運転終了。
- 1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により東日本旅客鉄道が承継。
- 1988年(昭和63年)3月13日 - 支線 尻手駅~浜川崎駅間でワンマン運転開始。
- 1990年(平成元年)12月20日 - 川崎市中原区内の高架化が完成。
- 2005年(平成17年)10月9日 - 矢野口駅前後の高架化が完成。
- 2006年(平成18年)1月頃 - 一部駅の接近放送が東海道型から仙石型に変わる。
- 2007年(平成19年)3月18日 - ダイヤ改正。平日日中の運転本数が毎時5本(12分間隔)から毎時6本(10分間隔)に増加。
- 2008年(平成20年)度末 - 分倍河原駅~谷保駅間に西府駅開業予定。
- 2011年(平成23年)頃 - 矢野口駅~南多摩駅間の立体交差事業が完成予定(矢野口駅前後は既に完成)。
[編集] 車両
[編集] 本線
- 定期運用
1978年まで茶色の旧型国電が走っており、「チョコ電」として同線の代名詞となっていた。
快速運転の実施中から他路線から転属した101系に置き換えられていった。転属後もしばらくは黄色のほかに朱色や緑・青など元の路線の塗装色で混結させての運行も行われていた。そのためか、当時南武線のラインカラーが判らない、特定しにくいという人もいたが、これらは最終的にはすべて黄色に塗り替えられた。101系はその後103系に置き換えられていき、1991年1月に引退していった。その後も一部は鶴見線に移って活躍したが、これも翌1992年の5月までに姿を消している。
1989年3月から新造のステンレス車205系が南武線独自のラインカラー(黄・橙・ぶどう色)で配備され、その後1993年4月からの209系とともに全体の半分程を占めるようになった。もう半分はすべて209系とする計画もあったが、結局は103系後期仕様の高運転台車となった。
2003年度から、103系はE231系500番台の投入に伴い山手線で使われていた205系への置き換えが進められ、翌2004年12月に完了した。運転取扱上の問題と保守効率化のため、浜川崎支線および鶴見線も管轄する中原電車区管内に改造車が集中投入されたことから、南武線にのみ先頭車は中間車からの改造車(205系1200番台)と非改造車の両方が配置されることとなった(他線にはどちらか片方が選択的に投入されている)。
ちなみに、209系は2次車の川崎重工業製(クハ209-13からの6両編成・ナハ1編成)と8次車東急車輛製(クハ209-68からの6両編成・ナハ32編成)の編成が1本ずつ配置されている。なお8次車には緊急停止装置は装備されていない。両者のこれ以外の違いとして、ナハ32編成には行先横に線区表示幕が付いていないなどが挙げられる。205系新製車はコスト削減のため、ドア表示灯が電球であったりドア下に滑り止めがついていなかったりする(取り付けられた車両もあり)。山手線からの転属車のうち、先頭化改造車については車いすスペースが設置されている。なお、このうち1本が埼京線の余剰車を先頭化する予定だったが、土崎工場のミスで全車が山手線からの転属車となった。
なお、2006年7月下旬から順次、ドア下部に豊田電車区所属の201系のみであった「ひらくドアにちゅうい」ステッカーの貼り付けを行っている。また、ドアの車内上部には「すき間に指を入れないでください」というステッカーも貼り付けられている。
2007年3月5日から、南武線開業80周年を記念するステッカーとヘッドマークが205系8本に貼付され、ヘッドマークは先頭車の前面に、ステッカーは側面に貼付された。
これらの事情から、かつては「首都圏の通勤電車の墓場」と呼ばれることが多かった。現在では同じように中古車が多い京葉線も「京葉中古車センター」と呼ばれることがあるが、国鉄末期の頃まではこの路線が同じような光景であった。
貨物列車の牽引機としてはEF64、EF65、EH200などが使用される。
- 臨時運用
など。臨時列車用に一部の駅には8両対応のホームや8両用の停止位置がある。また、過去にはアルファリゾート21や583系が入線したこともある。なお、2008年度末に開業予定の西府駅のホームは6両編成対応となる。
[編集] 支線
支線の列車は
- 205系(改造車)2両編成
101系がJR最後の定期運用に就いていたが、2002年8月に205系1000番台が営業を開始したことにより、翌2003年11月に101系は定期運用から離脱した。205系1000番台は、101系の塗色を踏襲して緑色とクリーム色の線が引かれている。
[編集] 過去の車両
[編集] 南武線の車両
- 103系6両編成 (4M2T)(1982年~2004年)
- 101系4両編成、6両編成(2M2T、4M、6M、4M2Tまたは2M1T+2M1T)(1969年~1991年(本線)、1980年~2003年(支線))
- 72系・73系4両/6両編成(1963年~1978年)
- 40系(1962年~)
- 50系・33系・31系・30系2両/3両/4両/6両編成(1947年~1967年頃(本線)、~1980年(支線))
- 小田急1600形(1947年5月~10月、限界拡大工事期間中の借用)
- EF15
- EF13
- EF11
- EF10
- EF51
- ED16(~1983年)
- ED18(1959年~60年)
- ED19(~1959年)
- 南武鉄道1000形→ED34→ED27(~1971年)
- 青梅電気鉄道1号形、2号形→ED36(~1960年)
- 奥多摩電気鉄道1020形→ED37
- C11(線内貨物列車の牽引など)
- C12(同上)
- DD13(川崎河岸駅への貨物列車の牽引など)
- 167系(修学旅行列車)
[編集] 南武鉄道の車両
- 南武鉄道の電車も参照
南武鉄道時代の車両は買収後も番号もそのままで使用され、1947年10月までは省形は建築限界の関係で入線することができなかったこともあり、電車については旧青梅電気鉄道車の転入や小田急からの借用車などとともに最終的には1951年5月まで使用された後に富山港・福塩・可部・宇部線などへ転出、電気機関車については南武鉄道時代から乗り入れていた旧青梅電気鉄道、旧奥多摩電気鉄道の機関車とともに廃車まで青梅・南武線で使用された。また、南武鉄道時代には競馬開催時に小田急から借り入れた車両が使用されたり、向河原まで小田急の電気機関車が砂利輸送列車を牽引して乗り入れたりしている。
- 蒸気機関車
- 1(1925年汽車製造製22tCタンク、買収後1120)
- 2(1926年汽車製造製1C1タンク、買収後3255、相鉄かしわ台車両センターで保存の神中鉄道3号機と同形)
- 12(1927年長野電鉄12を譲受、1923年川崎造船製40t1C1タンク、買収後90)
- 3(1937年雲仙鉄道23を譲受、1922年雨宮製作所製25t1Bタンク、買収後3015→常総筑波鉄道9)
- 電気機関車
- 1001(1928年~1929年日立製作所製BB箱形50t、買収後ED34→ED27)
- 電車
- モハ100(1926年~1931年汽車製造製、15m級dD12D1)
- モハ150(1941年帝国車両製、17m級d1D4D4D2)
- モハ400(1935年譲受の旧国鉄モハ1060、1064、鶴見臨港鉄道へ譲渡)
- モハ500(501・502は1937年譲受の旧国鉄モハ1055・1056、1942年日本鉄道自動車で鋼体化しモハ505・506、17m級dD6D6D1、503・504は旧国鉄モユニ2002・モニ3006の鋼体化で1940年木南車両製16m級dD4D4D1)
- クハ210(1939~1940年木南車両製、15m級dD4D4D1)
- クハ250(1942年汽車製造製、17m級d1D4D4D2、モハ150と同形)
- サハ200(1939年木南車両製、阪神の木造車の車体利用の14m級の201・202と南海の木造車の車体利用の16m級D141D141D正面5枚窓の203、サハ201は後に矢向電車区の食堂に転用)
- サハ215(1941年国鉄盛岡工場製18m級3扉、木造客車改造)
- ハ216(1942年国鉄旭川工場製17m級3扉、木造客車改造)
- サハ301(1942年国鉄釧路工場製15m級2D10D2、木造客車改造)
- 貨車
- 有蓋車:ワ1~8、11~29、301~304、ワフ1~4、ワブ301~306、テブ201~209
- 無蓋車:ト1~40、301~330、401~453、454、455、458~464、トム101~130、トフ1~4、ヲキ1~8、ヲサフ1~2
[編集] 駅一覧
[編集] 本線
駅名 | 駅間 キロ |
累計 キロ |
接続路線 | 所在地 | |
---|---|---|---|---|---|
川崎駅 | - | 0.0 | 東日本旅客鉄道:東海道線、京浜東北線 京浜急行電鉄:本線、大師線(ともに京急川崎駅) |
神奈川県 | 川崎市川崎区 |
尻手駅 | 1.7 | 1.7 | 東日本旅客鉄道:南武線(支線) | 川崎市幸区 | |
矢向駅 | 0.9 | 2.6 | 横浜市鶴見区 | ||
鹿島田駅 | 1.5 | 4.1 | 東日本旅客鉄道:横須賀線(新川崎駅:徒歩連絡) | 川崎市幸区 | |
平間駅 | 1.2 | 5.3 | 川崎市中原区 | ||
向河原駅 | 1.3 | 6.6 | |||
武蔵小杉駅 | 0.9 | 7.5 | 東日本旅客鉄道:横須賀線(2009年度開業予定) 東京急行電鉄:東横線、目黒線(始点) |
||
武蔵中原駅 | 1.7 | 9.2 | |||
武蔵新城駅 | 1.3 | 10.5 | |||
武蔵溝ノ口駅 | 2.2 | 12.7 | 東京急行電鉄:田園都市線(溝の口駅) | 川崎市高津区 | |
津田山駅 | 1.2 | 13.9 | |||
久地駅 | 1.0 | 14.9 | |||
宿河原駅 | 1.3 | 16.2 | 川崎市多摩区 | ||
登戸駅 | 1.1 | 17.3 | 小田急電鉄:小田原線 | ||
中野島駅 | 2.2 | 19.5 | |||
稲田堤駅 | 1.3 | 20.8 | 京王電鉄:相模原線(京王稲田堤駅へは約400m、徒歩約5分) | ||
矢野口駅 | 1.6 | 22.4 | 東京都 | 稲城市 | |
稲城長沼駅 | 1.7 | 24.1 | |||
南多摩駅 | 1.4 | 25.5 | 西武鉄道:多摩川線(是政駅:府中街道の是政橋(多摩川)を渡り徒歩約10分) | ||
府中本町駅 | 2.4 | 27.9 | 東日本旅客鉄道:武蔵野線(始点) | 府中市 | |
分倍河原駅 | 0.9 | 28.8 | 京王電鉄:京王線 | ||
谷保駅 | 2.8 | 31.6 | 国立市 | ||
矢川駅 | 1.4 | 33.0 | |||
西国立駅 | 1.3 | 34.3 | 立川市 | ||
立川駅 | 1.2 | 35.5 | 東日本旅客鉄道:中央線(快速)、青梅線 多摩都市モノレール:多摩都市モノレール線(立川北駅、立川南駅) |
- 分倍河原駅~谷保駅間に、2008年秋頃、西府駅が設置される予定。
[編集] 支線
駅名 | 駅間 キロ |
累計 キロ |
接続路線 | 所在地 | |
---|---|---|---|---|---|
尻手駅 | - | 0.0 | 東日本旅客鉄道:南武線(本線・支線) | 神奈川県 | 川崎市幸区 |
八丁畷駅 | 1.1 | 1.1 | 京浜急行電鉄:本線 東日本旅客鉄道:東海道貨物支線 |
川崎市川崎区 | |
川崎新町駅 | 0.9 | 2.0 | |||
浜川崎駅 | 2.1 | 4.1 | 東日本旅客鉄道:鶴見線、東海道貨物支線 |
[編集] 廃止区間
括弧内は起点からの営業キロ
[編集] 廃駅
- 武蔵中丸子駅(平間駅~向河原駅間・空襲で焼失)
- 武蔵小杉停留場(武蔵小杉駅~武蔵中原駅間)
- 宿河原不動停留場(久地駅~宿河原駅間)
- 南武是正停留場(南多摩駅~府中本町駅間)
- 本宿停留場(分倍河原駅~谷保駅間)
- 西府停留場(分倍河原駅~谷保駅間)
- 東立川停留場(西国立駅~立川駅間)
- 新浜川崎駅(浜川崎駅~川崎新町駅間)
- 市ノ坪駅(新鶴見操車場隣接)
[編集] その他
- 川崎河岸駅には、多摩川の堤防の外側の艀へ砂利を積むための設備まで線路が延びており、水上運輸との連絡を図っていた。廃線後は一部が遊歩道となり、川崎河岸駅は公園となっている。開業当初は川崎駅の北側に工場があり、同駅から多摩川岸へ路線を延長して貨物駅を設けることができなかったため、旅客は同駅での連絡、貨物は矢向から分岐させて川崎河岸駅での連絡と分けることとなったものである。
- 登戸駅には小田急電鉄による小田原線との連絡線が向ヶ丘遊園方面に向けて1936年1月認可で設置され、戦前は府中の競馬輸送や江ノ島の海水浴輸送での電車の貸し借りに使用したり、多摩川の砂利の東京方面への輸送や相模川の砂利の京浜工業地帯への輸送に使用したりしたほか、戦後も戦災で不足した車両を貸し借りするなど、戦後しばらくまで残ったが、正式には1967年3月に廃止された。
[編集] 今後の計画
- 駅間距離が最も長い分倍河原~谷保間に、新駅として西府駅(廃止された本宿駅の位置)の設置が決定し、設置と併せて府中市により区画整備事業が行われている。新駅は相対式地上ホームと南北自由通路を持つ橋上駅舎で計画されている。2008年度に開業予定。
- 稲田堤~府中本町間の連続立体交差事業(高架化)が2011年に完成する予定で、これにより矢野口・稲城長沼・南多摩の各駅は高架化される(矢野口駅前後は既に完成)。
- 武蔵小杉駅に横須賀線の新駅を設置することが2005年4月4日にJR東日本と川崎市の間で合意され、横須賀線との交点まで連絡用通路も設置される。2009年度に完成予定。
- さらに、2003年3月4日2003年3月4日の日本経済新聞の記事( [2])では、2010年に川崎駅から支線の八丁畷駅付近まで新線を建設し、川崎駅と浜川崎駅方面を直結して「川崎アプローチ線」とし、支線の尻手駅~八丁畷駅間は廃止する、という案が挙げられている。
- ほかにも、鹿島田駅~新川崎駅間の通路を整備する計画や、建設予定の川崎縦貫高速鉄道(川崎市営地下鉄)を武蔵小杉に乗り入れさせる案が挙がっている。
[編集] 関連項目
[編集] 参考文献
- 鉄道ピクトリアル568号「特集・南武・青梅・五日市線」(電気車研究会)
- 佐竹保雄、佐竹晃「私鉄買収国電」(ネコ・パブリッシング)
- 五味洋治「南武線物語」(多摩川新聞社)
- 原田勝正「南武線いまむかし」(同上)