浦山桐郎
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浦山桐郎(うらやまきりお、1930年5月14日-1985年10月20日)は昭和期の映画監督。
兵庫県相生市に生まれる。出産時に母を亡くし、高校3年生のときに父が自殺したので、母の郷里の名古屋に移る。名古屋大学文学部仏文学科を卒業。
松竹の助監督応募に募集し、筆記試験では高得点をとるが、身体検査でおとされる。この時、大島渚は合格し、山田洋次はおちる。その時の試験官だった鈴木清順に誘われ、日活の入社試験を山田と共に受け、不合格となり、山田は合格する。しかし、山田が松竹に補欠合格したため、日活に補欠合格することができ、1954年に助監督として入社。川島雄三、今村昌平らの監督につく。1962年、早船ちよ原作、吉永小百合主演の『キューポラのある街』で監督デビューする。鋳物の町に暮らす貧しい若者の生き方を描いたこの作品は大好評となり、日本映画監督協会新人賞、キネマ旬報ベストテン第2位など高い評価を受けた。
1963年には和泉雅子主演の『非行少女』を撮り、モスクワ国際映画祭金賞を受賞。遠藤周作の原作をもとに実験的演出を試みた『私が棄てた女』を撮ったのち日活を離れ、大竹しのぶのデビュー作となった『青春の門』、『青春の門・自立篇』、テレビドラマ『飢餓海峡』などを演出する。アニメーション『龍の子太郎』、灰谷健次郎原作の『太陽の子 てだのふあ』と子ども向けの作品が続いたのち、1983年には古巣日活(当時にっかつ)のロマンポルノ作品で、木村理恵主演の『暗室』を発表して話題を呼ぶ。さらなる活躍が期待されたが、吉永小百合主演で『夢千代日記』を完成させた1985年、急性心不全により死去。享年55。
吉永小百合や大竹しのぶを育て上げ、「女優育ての名手」と言われた。とくに、『私が棄てた女』に出演する小林トシエを自宅において特訓したエピソードは有名である。 演出上の問題から、『青春の門』の原作者五木寛之との関係は悪化していたと言われる。
[編集] 監督作
[編集] 映画
- キューポラのある街(1962年)
- 非行少女(1963年)
- 私が棄てた女(1969年)
- 青春の門(1975年)
- 青春の門・自立篇(1976年)
- 龍の子太郎(1979年)
- 太陽の子 てだのふあ(1980年)
- 暗室(1983年)
- ふれんず・らぶ(1985年)ビデオ作品
- 夢千代日記(1985年)
[編集] テレビ
- 飢餓海峡(1978年)