吉永小百合
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
吉永 小百合(よしなが さゆり、本名:岡田小百合(おかだ さゆり)、1945年(昭和20年)3月13日 - )は、東京都渋谷区代々木西原町出身(当時)の女優である。そのファンは、「サユリスト」と呼ばれる。吉田正(作曲家)の門下生として、数多くのレコードを出している。
目次 |
[編集] 経歴
- 1957年(昭和32年) - 渋谷区立西原小学校6年生。小学校の5年先輩に実姉・吉永玲子と平沼赳夫初代経済産業相がいる。1月、ラジオ東京(現 TBSラジオ)の連続ラジオドラマ『赤胴鈴之助』でデビュー。10月、ラジオ東京制作のテレビドラマ『赤胴鈴之助』でテレビデビュー。
- 1959年(昭和34年) - 『朝を呼ぶ口笛』で映画デビュー。
- 1960年(昭和35年) - 渋谷区立代々木中学校卒業、東京都立駒場高等学校入学。
- 1961年(昭和36年) - 精華学園女子高等学校(現 東海大学付属望洋高等学校)転入学。
- 1962年(昭和37年) - 高校在学中に、『キューポラのある街』(浦山桐郎監督)に主演。『寒い朝』でレコードデビューし20万枚のヒット。橋幸夫とデュエットし30万枚の大ヒットとなった『いつでも夢を』で「日本レコード大賞」受賞。この頃から日活の清純派女優として浜田光夫とコンビを組む。
- 1965年(昭和40年) - 大学入学資格検定を取得して早稲田大学第二文学部(夜間部)史学科西洋史専修に入学(俳優業多忙の為精華学園女子は中退していた)。
- 1969年(昭和44年) - 多忙な中、早稲田大学第二文学部(夜間部)を正規の4年間で卒業。
- 1973年(昭和48年) - フジテレビの岡田太郎ディレクター(現在共同テレビ会長)と結婚。15歳差だった。
- 1985年(昭和60年) - 『おはん』、『天国の駅』の演技で、「日本アカデミー賞最優秀主演女優賞」初受賞。以降、1989年(平成元年)、2001年(平成13年)、2006年(平成18年)と、最優秀主演女優賞を計4度受賞している。
- 1988年(昭和63年) - 『つる-鶴-』(市川崑監督)に主演し、映画出演は通算100作品となる。
- 1997年(平成9年) - 朗読CD『第二楽章』で「第39回日本レコード大賞企画賞」受賞。
- 2002年(平成14年) - 平和記念資料館(広島市)に導入された音声ガイドのナレーションをボランティアで担当。
- 2003年(平成15年) - 上記ナレーションや、同じくボランティアである原爆詩の朗読等の平和活動が評価され、「第15回谷本清平和賞」受賞。
- 2005年(平成17年) - 第56回NHK紅白歌合戦では、山梨県からの中継で原爆詩を朗読した。
[編集] 人物
- 「日活の看板女優」として、浜田光夫と共に1960年代の日本映画界に一大旋風を巻き起こした。従来の男性アクション映画路線がマンネリ化していた当時の日活にとって、吉永・浜田コンビの純愛&青春映画路線は、新たな日活映画ファンの獲得と支持を集めた。特に、『キューポラのある街』、ベストセラーを映画化した『愛と死をみつめて』等は話題となった。
- ブロマイドが爆発的に売れ、1964年(昭和39年)、1968年(昭和43年)、1969年(昭和44年)と、年間売上実績で女性部門1位に輝いた。当時は高校生であり、彼女と共に青春時代を歩んだ世代に「サユリスト」と呼ばれるファンが多い。有名人ではタモリ、野坂昭如らが有名である。
- 吉永主演映画の原作者でもある川端康成、石坂洋次郎といった大作家にも非常に気に入られ、川端は吉永に会いたいために山奥の伊豆の踊子のロケ現場を突然訪ね、石坂は吉永が演じることを想定して作品を書いた。
- 以降ずっと人気女優であったと思われがちだが、1970年代はスランプの時期であった。日本映画の衰退期と重なった事もあるが、結婚相手が15歳も年上の業界関係者で役柄のイメージに合わず、結婚に反対する両親との仲違いも報道されたりもして、女優としての活躍の場が激減した。当時の邦画界には、ヌードも辞さず大胆に現代女性を演じる若手女優が多数登場しており、吉永が1960年代に演じ続けた「清純なお嬢さん」像は類型的で古臭い印象になってしまっていた。子役出身の俳優にしばしば見られる様に、娘役から大人の女性への脱皮がスムーズに行かなかったとも言える。1975年(昭和50年)、『青春の門』で初めて「清純なお嬢さん」を脱する演技を披露した。
- デビュー時代以外はテレビドラマには縁の無い印象であるが、映画出演の減り始めた時期に、NHK大河ドラマにも出演している。1981年(昭和56年)の『夢千代日記』(NHK)では、大人の女性としての情感を豊かに表現して話題となる。この時期から次第に演技力もある大女優という評価を受け始めた。「サユリスト」復権も同時期であり、邦画冬の時代にも定期的に出演作が製作され現在に至る。
- 広島を舞台にした『愛と死の記録』の出演や、『夢千代日記』(NHK)で原爆症に苦しむ主人公を演じたことをきっかけに、1986年(昭和61年)からボランティアで原爆詩の朗読会をスタートさせている。現在では女優としての活動のほか、反戦・反核運動をライフワークとしている。
- 最近のテレビ出演はほぼCMのみであり、映画中心に活躍している。映画出演作は、2008年公開予定の『母べえ』が112本目となる。
- 確定申告手続で各社の取材を受けた際、同席していた当時の大蔵大臣に「この税金は戦闘機を買う費用に使ったりせず、もっと国民のためになる事に使って欲しい」と釘を刺した。
- 西武ライオンズと早稲田大学ラグビー部の、日本一有名なファンである。2003年(平成15年)、『吉永小百合 街ものがたり』(TBSラジオ)の中で、鉄道ファンである事を告白した。
[編集] 豆知識
- 吉永が歌った『奈良の春日野』(「フン、フン、フン、鹿のフン」という曲)は、元々1965年(昭和40年)に発売されたシングル『天満橋から』(第16回NHK紅白歌合戦出場)のB面曲であったが、1987年(昭和62年)に明石家さんまがギャグとして取り上げた事から大ブレイクした。曲に合わせた振付も作られ、レコードも再発売(A面を『奈良の春日野』に変更)されヒットした。
- 三波春夫の曲と思われがちな「世界の国からこんにちは」のレコードを日本万国博覧会当時に出している。同博覧会開催の数年前に、「世界の国からこんにちは」の歌が初めてマスコミに発表された時も三波春夫ではなく吉永がその場で歌っている。
- 「サユリスト」を自認するタモリは、同じく「サユリスト」として知られる野坂昭如に対して、「あの人は一時、山口百恵に走ったが、俺は小百合サマ一筋」と述べた事がある。タモリと吉永は早稲田大学に在学していた時期が重なっており、学生食堂で吉永が食事しているのを偶然に発見した際、吉永の食べ残しを何の躊躇も無く食べたという。(真偽は不明)
- 早稲田大学での卒業論文のテーマは「アイスキュロスの『縛られたプロメテウス』におけるアテネ(アテナイ)の民主制について」であった。
[編集] 出演
[編集] 映画
- 上を向いて歩こう(1962年)
- 伊豆の踊り子(1963年)
- 愛と死をみつめて(1964年)
- うず潮(1964年)
- 男はつらいよ 柴又慕情(1972年)
- 男はつらいよ 寅次郎恋やつれ(1974年)
- 青春の門(1975年)
- 皇帝のいない八月(1978年)
- 動乱 (1980年)
- 細雪(1983年)※3度目の映画化
- 夢千代日記(1985年)
- 天国の大罪(1992年)
- 長崎ぶらぶら節(2000年)
- 千年の恋 ひかる源氏物語(2002年)
- 北の零年(2005年)
- 母べえ(2008年予定)
[編集] テレビドラマ
- 樅ノ木は残った(1970年、NHK)
- 女人平家(1971年-1972年、朝日放送・TBS)
- 風と雲と虹と(1976年、NHK)
- 鮎のうた(1979年-1980年、NHK)
- 夢千代日記(1981年-1984年、NHK)
[編集] バラエティー番組
- スター千一夜(フジテレビ) - 司会も担当
- 料理バンザイ!(テレビ朝日) - 特別ゲストでイタリアロケ
- 今夜は最高!(日本テレビ)
- 徹子の部屋(テレビ朝日)
- すてきな出逢い いい朝8時(毎日放送・TBS)
- おしゃれカンケイ(日本テレビ)
- 「ぷっ」すま(テレビ朝日)
- スタジオパークからこんにちは(NHK)
[編集] 歌番組
[編集] ラジオ番組
- 吉永小百合 街ものがたり(1997年4月-2004年3月、TBSラジオ)
- 今晩は 吉永小百合です(2005年10月-、TBSラジオ)
[編集] 広告
[編集] 著書
- 憲法を変えて戦争へ行こう という世の中にしないための18人の発言(2005年、岩波書店 ISBN 4000093576)
[編集] 朗読CD
- 第二楽章(1997年) - 広島の原爆詩を朗読
- 第二楽章・長崎から(1999年)
- 第二楽章・沖縄から「ウミガメと少年」(2006年) - 野坂昭如の戦争童話集を朗読